【展覧会】発掘!福沢一郎 120年めの「再発見」 5/24 – 6/24, 2018

 

このたび、福沢一郎記念館(世田谷)では、春の展覧会「発掘!福沢一郎 120年めの『再発見』」を開催いたします。
当館は開館以来24年にわたって、画家福沢一郎とその作品を紹介する展覧会や講演会、定期刊行物の発行など、さまざまな活動を続けてきました。福沢は昭和初期に前衛絵画の牽引役として活躍し、「シュルレアリスム絵画の紹介者」という美術史上の位置づけが、彼を語ることばの中で大きな意味を持ち続けてきました。
しかし、福沢の画家としての活動はひととおりではなく、いわゆる「シュルレアリスム絵画」の前後にも興味深い制作を数多く遺しています。その後現代絵画の旗振り役としての役割から脱し、神話や歴史物語の世界を多く描くようになってからも、今なお輝きを放つ作品を数多く生み出しています。
福沢一郎生誕120年を迎える2018年春の展覧会は、多様な福沢作品の魅力を改めて「発掘」し、その多彩な輝きを作品・資料の展示によってご紹介します。
この機会にぜひごらんください。

 


《海辺》1929年 油彩・キャンバス 個人蔵

 


《農耕》1946年頃 キャンバス

 


《無題(ハワイの女)》1980年代 アクリル・キャンバス

 


《花(イラン デザート ミラクル)》1990年 キャンバス

 


会 期:2018年5月24日(木)〜6月24日(日)の木・金・土・日開館
12:00-17:00
入館料:300円

※講演会開催のお知らせ
「〈世界〉という構造ー福沢一郎の場所」
講師:沢山 遼 氏(美術批評家)

◎終了しました 多数のご参加ありがとうございました◎

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シュルレアリスムにおけるコラージュ(デペイズマン)とは、従来それがあった場からイメージを奪い去り、それを別の場に移動させ、未知のイメージとイメージを遭遇させることである。大戦間の極度に緊迫した社会情勢のなか、マックス・エルンストの絵画を通じて、福沢一郎は、こうしたコラージュの技法に、徹底的にリアリスティックな力学的諸関係を見出した。なぜなら、コラージュにおいては、イメージの場の移動が、イメージ相互に構造的な落差、偏差をもたらす。それゆえコラージュの実践は、さまざまな落差や偏差をもつ社会構造や権力構造の分析に直結する。ともすると福沢は、オリジネーターであるエルンストよりも明晰にそのことに気づいていた。
そして福沢一郎は旅する人だった。彼自身が、彼のイメージと同様に、移動する存在だった。福沢は、パリ、満州、ニューヨークのハーレム、メキシコ、ギリシャなど、世界の各地に出かけ、その旅行のたびに、自らの絵画を大きく展開させた。それは、世界に存在する構造的な不均衡や亀裂、矛盾が、彼の絵画にその都度大きな意味を与えたことを示している。福沢はそのような場に、人間的諸関係がむき出しになった神話的世界を見た。そして実際に、神話を描いたのである。そこに認められるのは、純粋化する近代絵画の理念に逆らうように、世界が構造的に抱え込んだ葛藤や亀裂を捉えようとする福沢の姿である。不和と分断が強まる世界において、福沢の絵画は古びるどころか、ますます力強さを増している。
本講演では、生誕120年を迎え、東京国立近代美術館での大規模な回顧展も控える福沢一郎の芸術を再考してみたいと思う。

日時:6月10日(日) 14:00〜15:30
場所:福沢一郎記念館
会費:1,500円(観覧料込)
 

【展覧会】PROJECT dnF 第5回 蓬󠄀田真「display」アーティストコメント

蓬󠄀田真 アーティストコメント … 往復メールから

2016年10月〜12月
ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


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蓬󠄀田真(よもぎだ・まこと)
1971年生まれ。1996年、多摩美術大学絵画科油画専攻卒業(福沢一郎賞)、同年 第14回上野の森美術館大賞展入選・賞候補。2000年、個展「蓬󠄀田真展」(横浜トヨペット本社ショールーム ウエインズ21)。2002年、第12回全日本アートサロン絵画大賞展入選。2007年、個展「ものを見て描く~油彩・水彩・染付から~ 蓬󠄀田真展」(横浜・相鉄ギャラリー)。2012年、DESIGN FESTA vol.35に出展(東京ビッグサイト)。ほか個展、グループ展多数。

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1 第1回「福沢一郎賞」受賞作品

—- 今回の記念館での個展、展示してみて、いかがですか。率直な感想をおきかせください。

蓬󠄀田 ひとことで言うと「ありがとうございました」というのが展示させていただいた感想です。まず記念館の皆様には、第1回福沢一郎賞受賞者として個展を開催させていただき、大変感謝しております。そして観に来てくださった皆様にもお礼を言いたいです。
今回記念館での展示が決まったことは作品制作の大きな励みとなりました。またギャラリーではなく、福沢一郎さんのアトリエという空間のおかげで、来てくださった方々にゆったりと鑑賞していただけたようです。記念館は私自身にとっても、展示しやすく、居心地のよい場所でした。

—- こちらとしても、ありがたいことです。今回は第1回福沢一郎賞受賞作品「イエローテーブル」から最近作、そして陶器やカルトナージュなど、いろいろな作品を展示していただきました。この展示の意図というか、ねらいを、おきかせ願えますか。

蓬󠄀田 賑やかで、気軽にみていただける雰囲気を心がけました。展覧会名を「display」としたのは、作品を「展示する」というよりも「陳列する」「並べる」感じにしたかったからです。また静物画で、ものを並べる時には、自分だけのショーウィンドウを作るイメージがあり、displayという言葉が合っていると感じたからでもあります。

—- なるほど。ではまず、福沢一郎賞受賞の《イエローテーブル》(1996年、図1)についてお話うかがいたいと思います。白や黄色のモティーフで占められたテーブル。所々グリーンもありますが…。電話やボウル、洗剤、レモンなど、わりと身近なモティーフが多いですね。しかし、背景には何処の街なのか判然としない地図が、薄暗い中に描かれていて、明るいテーブルの上との強いコントラストを感じます。リアルなのにリアルじゃない室内、といいますか…そんな印象を私などは受けます。じっさい、この作品はどのように描かれたのでしょう?



図1 《イエローテーブル》 1996年 油彩 F100

蓬󠄀田 自宅の自分の部屋で、モチーフを並べて描きました。「暗い部屋に黄色いかたまりがある」イメージで、黄色いものを探し回った記憶があります。自宅に転がっていたものもあれば、街に出て買ってきたものもあります。モチーフを並べる時は楽しく、作品もちょうど1ヶ月で完成しました。背景は黄色いモチーフとのコントラストを強められるよう、暗くしました。地図は柄として見るとすごく面白く、テーブルにかけたレモン柄の布と対比させる意味で後ろに配置しました。

—- 実際に部屋の中に構成されたモティーフを見ながら、「黄色いかたまり」を強調するような画面づくりを心がけられたということなんですね。地図が柄として面白いという感覚、わかるような気がします。でも、これはどこの地図ですか?という質問を受けることもあったのではないでしょうか? 実際、今回展覧会場ではそんな声も聞かれました。

蓬󠄀田 ご覧いただいた方から「ロンドンではないか」と教えていただきました。そう言われるとロンドンだったような気がしますが、正確にはどこの地図かわかりません。川のうねった形と、四角い建築物の対比がおもしろくて選びました。





2 静物画を中心に

—- そもそも、静物を中心に制作をし続けておられるのは、どうしてなんでしょう? 人物とか風景とか幻想の世界とか…そうしたものでなく、静物を。

蓬󠄀田 ものを目の前に置いて、それを見て描くのが好きなんです。植物や果物は時間が経つにつれて枯れたり腐ったりしていきますが、基本的には時間が経っても状態は変わらないのでじっくり制作できます。時間をかけて少しずつ画面を作っていきたいから、静物を描いています。絵を描き終えて、ずっと組みっぱなしだったモチーフをくずす時はすごくうれしいです。

—- あくまで、モノが集まってできるヴィジョン、あるいは図像そのものにご興味がおありなんですね。だから、作品の集積である個展の場合も、「展示」ではなく「陳列」、displayを目指したわけですね。確かに「展示」という場合、作品の並べ方にストーリーや意味、関連性をもたせたりして、何かしらの意図、メッセージを込める場合が多いです。蓬󠄀田さんの場合は、あくまでヴィジュアルにこだわる。意味やメッセージはある意味余計な要素、という感じなのでしょうか。

蓬󠄀田 余計な要素、とまでは言いませんが、私自身は「これいいな」と思ったものを納得いくまで描くだけで十分なんです。ものを描いていくことで画面ができていき、作家の言いたいことは絵の中のものに隠れて見えてこないような。例えば昆虫図鑑の虫の絵は小さい頃からずっと好きですし、植物画にも興味があります。

—- 今回は植物画も何点か展示していただきました(図2)。モティーフとなる植物はどんなふうに選ぶのでしょう?



図2 《リンゴ》 2005年 水彩 74×56cm

蓬󠄀田 その季節に咲いたり、実ったりしているものを選びます。
静物を制作する時には当然自分で描くものをいろいろ準備しなければならないのですが、植物を描く場合は時期が来れば、それだけでよいモチーフになるところがありがたいです。花や実は早く描ききってしまわないと枯れたりしおれたりしてしまうので集中して制作しなければならず、静物画とは違った魅力があると思います。

—- 植物画の制作で得たイメージが、(油彩の)作品のなかに登場したりすることはあるのでしょうか?

蓬󠄀田 絵画作品についてはありませんが、今回、絵と一緒に展示した染付の皿には、魚や水辺の生き物を描いています。かっこいいな、面白いな、と感じた生き物を皿に絵付けし、その上から透明な釉薬をかけて焼きます。完成すると、呉須と呼ばれる顔料で描いた魚などの絵が釉薬でコーティングされるので、実際に料理をのせて使うことができます。皿に料理をのせるのは当たり前のことですが、陶芸を始めた頃「自分が描いた絵が生活の中で使えるんだ」と考えると、なんだか無性に嬉しくなったことを覚えています。




3 さまざまな制作

—- そうでした。今回は染付のお皿も展示していただきましたね(図3)。蓬󠄀田さんの制作の幅広さがうかがえます。陶芸はいつごろからなさっているのですか?



図3 陶器の展示の様子

蓬󠄀田 初めて陶芸を体験したのはもう20年ほど前です。紙やキャンバスのかわりに、素焼きのお皿に絵を描くようなイメージで制作しています。ただ私は形を作るのが得意ではなく、何を作ってもふにゃっとした形になってしまいます。
やきものの場合、描いた絵の仕上がりは窯から出てくるまでわかりません。それが楽しみでもあり、心配でもあります。

—- そして今回は、『カルトナージュ』という、紙や布で装飾した箱も展示なさっていましたね(図4)。これを制作するようになったきっかけはどんなものでしょう。

蓬󠄀田 モチーフとして集めていた柄布がたまり、何かできないかと考えていたところ、厚紙で作った箱に布を貼るカルトナージュを知りました。先ほどの染付の皿と同様、身近な生活の中で使えますし、形や大きさも自分が入れたいものに合わせて変えられます。内側に貼る布についても、外側の布と響き合う色にするか、開けた人が「意外」と感じる色にするかを考えることができ、楽しいです。



図4 カルトナージュ制作例


4 教師という立場で

—- 今は高校で美術の教師をなさっていますが、「美術」という教科を「教える」ことの難しさ、そして面白さはどんなものでしょう。

蓬󠄀田 高校では、生徒は芸術科目の一つとして美術を選択する形になります。当然ですが、選択した全員が美術関係の進路に進むわけではありませんので、美術の専門家を育てるのではなく、少しでも美術を好きになってもらえたらいいな、そういうきっかけになったらいいな、と思って授業をしています。
高校生の作品には、私にはとても思いつかない新鮮な発想や大胆な表現があります。一人一人の違いや生きてきた時間が作品として、目に見える形でできあがる場に立ち会えるのは幸せなことです。
また、美術関係に進学した生徒と卒業後に話したり、卒業生の作品展を見に行ったりするのはすごく楽しいし、この職業でしか味わえない喜びだと思います。

—- また、画家と教師の両立という問題は、どのように考えていらっしゃいますか。私が思うに、蓬󠄀田さんはそこのところは、あまり強く意識せず、自然体で仕事も制作もすすめていらっしゃるように思うのですが。

蓬󠄀田 ありがたいお言葉ですが、仕事も制作も、自然体にはほど遠い状態です…。確かに「両立させるぞ」と考えたことはなく、仕事が終わってからの時間をどう制作に生かすかを考えています。忙しいのはどんな仕事でも同じでしょうし、働いたからこそ、また制作に集中できる部分もあると思います。
大学でお世話になった先生方からいただいたお手紙にも、「頑張って制作を続けるように」とか「粘ってください」とあり、自分が小さい頃から好きで続けてきたことを、これからも続けていきたいです。





—- 最後に、今後の制作で、大事にしたいこと、挑戦してみたいことなどがあれば、教えてください。

蓬󠄀田 これからも、一つ一つ丁寧に制作していきたいです。そして平面作品以外にも、まだやったことのない工芸的な分野などにも挑戦してみたいと思っています。



図5 《白のテーブル》 2002年 油彩 F20






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第1回「福沢一郎賞」受賞者を世に送り出してから22年。受賞者の数は昨年までで252名になる。当然のことながら、受賞者の「その後」はさまざまである。海外を拠点に活動する者、美術館やギャラリーの展覧会で引っ張りだこの人気者もあれば、ひっそりと自らの愉しみとして制作を続ける者もいる。中には制作を全く止めてしまった者もいると聞く。それでも、受賞の喜びが現在までの活動の原動力になっている、と受賞者の方からことばをいただくたび、ささやかな賞も決して無駄ではなかったと思える。
蓬󠄀田は、決して華々しい活躍とはいえないかもしれないが、高校教諭をつとめながら、地道な活動を継続してきた。その制作は、描く対象のヴィジュアルに純粋に迫ろうという、至ってシンプルなものである。モティーフとの対話を愚直に繰り返し、明瞭な描画によってそのヴィジュアルを鮮やかに浮かび上がらせる。第1回福沢一郎賞受賞作《イエローテーブル》から今日の制作まで、その態度は一貫している。
自らが挑んだ100号の画面を生徒たちに見せた瞬間「やっと教師として認めてもらえるんです」と照れたように笑う画家のうちには、ひたむきに対象と画面との対話を繰り返した、その膨大な積み重ねによる確かな自負がある。ゆるがない制作によって生徒たちに画家のありよう、そして絵画のありようを示す。蓬󠄀田は疑いなく、そんな教師であり続けるだろう。
彼のもとから巣立つ子どもたちの中から、次の「福沢一郎賞」受賞者がうまれる日も、そう遠くない将来やってくるかもしれない。(伊藤佳之)


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※この記事は、展覧会終了後、ききてと作家との間で交わされた往復メールを編集し、再構成したものです。
※ 図番号のない画像は、すべて会場風景および外観






【展覧会】PROJECT dnF 第6回 小林文香「静かな音をみる」アーティストトーク

小林文香 アーティストトークの記録

2016年10月28日
ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


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小林文香(こばやし・あやか)
1987年生まれ。2010年、女子美術大学洋画専攻卒業。2012年、女子美術大学大学院版画領域修了、福沢一郎賞。在学中から個展やグループ展で活躍。2011年第16回鹿沼市川上澄生木版画大賞展(大賞)、同年第11回やまなし県民文化祭(最優秀賞) など受賞も多数。2014年、第82回日本版画協会版画展にて賞候補。現在、日本版画協会準会員。

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1 制作について

—- まずは、福沢一郎のアトリエで作品の展示をしていただいた、率直な感想をお聞かせ願えますか。

小林 非常に気持がいいです。なんといっても、この天上の高さと明るさ。これまでのギャラリーの展示では感じられなかった、気持ちよさ、開放感があります。また、福沢一郎先生のアトリエという、独特の雰囲気にも助けられて…今までにない展示になりました。

—- 小林さんは木版画を主に制作していらっしゃいますね。今回も展示作品のほとんどが、モノクロを基調とした木版画です。これまでの制作じたい、モノトーンの木版画が多いのでしょうか。

小林 そうですね。絵の内容が静かなものなので、色が入って来ると、どうしてもそちらに目が行ってしまう気がして、内容を見せていくために、主にモノトーンで制作をしています。

—- 絵の内容、つまり、小林さんが木版画で表現したいと考えているものは…ことばにするのは難しいとは思いますが、あえて言うとすると、どんなものでしょう…。作品のタイトルなどは、そのヒントになりそうな気がしますよね。《やさしさの選択》(図1)とか《夢のかけら》とか、《ほしめぐり》とか。

小林 はい、人間の無意識の世界や、宇宙に関するものが、タイトルには多いような気がします。このふたつは、どこかつながっているようにも思えるので。



図1 《やさしさの選択》 2016年 木版・和紙 54.6×84.2cm

—- 人間のうちにある無意識の世界と、途方もなく大きな宇宙という世界。相反するもののようで、実はつながっているのではないかと。

小林 無意識の中にも、記憶や情報が、養分のように漂っている。そういう状態が、宇宙の空間とも通ずるように思います。宇宙も、何もないようでいて、小さな塵のようなものがあって…そこから何かが生まれていく。そういう構造が似ているのではないかと考えています。

—- そうした世界を、木版画で表現しようとしていらっしゃる。今回は版木も展示をしていただきましたね。シナベニヤの版木に、彫刻刀で細かな点を穿っていくという手法で、版面を作っているんですね。
そして、主な作品はモノトーンですが、よく見ると、いくつもグレーの階調が重なっていることがわかります。また、刷られたかたちが微妙にずれて、ちょっとぼやけたような、不思議な効果を生んでいますね。

小林 これは、ひとつの版を使って何度も刷り重ねて作品を作っているのですが、その過程で、墨の水分によって紙が微妙に伸び縮みするんです。抑えようとしても出てしまう。でも、それが逆に味といいますか、面白い効果を生むのではないかと思って、制作に取り入れています。

—- 一版多色刷をモノトーンでなさっていると。そこに思わぬ効果があるんですね。元の版木では本来色が乗らないところにも、かすかにグラデーションがかかっているものもありますね。

小林 作品によっては、ベタの版でグラデーションを刷って、奥行きを出す工夫をしています。それは最後のほうで調整のためにやっています。



2 なぜ「木版画」なのか

—- 今回はとても大きな、額やパネルにおさまらない作品も出品してくださいました(図2)。

小林 これは10回以上版を重ねて刷って、グラデーションと色味を出しています。ぼやけ方の加減によって、色の乗っていない白い大きな粒が手前に出てくるような、そんな目の錯覚が生まれていて、そこが面白いなあと思っています。

—- なるほど。木版画というと、描いたかたちをそのまま明確に刷りだすもの、というふうに思いがちですが、版を重ねることで意識せず生まれるイメージも取り込んで、作品づくりをなさっているんですね。

小林 はい。



図2 《いのちの余韻》 2013年 木版・和紙 90.0×119.0cm

—- そもそも、なぜ木版画なのか。版画でこういう表現をしてみようと考えたのは、なぜなんでしょう。何かきっかけがあったのでしょうか。

小林 私は、はじめ油絵を描いていました。油絵というのは、どこまでも描き足すことができて、絵がどんどん変わっていってしまうんですね。元のイメージから離れたものになってしまうことがあって…。で、女子美の学部2年生のときに、版画の授業がありまして、体験してみたら、これはいいんじゃないかと。はじまりがあって、終わりがあるという、工程の明確さ。そこに惹かれて、木版画を制作するようになりました。

—- 版画をはじめる前も、たとえばドローイングとか油絵とか、そういうものは、今と同じようなイメージを目指して描いていらしたんでしょうか。

小林 はい。根本的なところは同じで、静かな内面の世界を描こうとしていました。

—- それを木版画で表現しようと思ったときに、葛藤とか、悩みみたいなものはありましたか。

小林 いえ、そういうことはありませんでした。刷ることでイメージができる。そこに間違いはない。いえ、間違ってもいいんですけど…引き返しができない。

—- 潔さ、みたいな。

小林 そうです! 版を彫るときの緊張感も含めて、木版画は肌に合っていると思いました。





3 「色」が息抜きに

—- もう少し絵のお話をおうかがいしましょう。例えばこういう絵、画面を作ろうと思ったときに、元になるスケッチやドローイングは、どんなふうに作るのですか。

小林 鉛筆や墨を使って、ドローイングをします。A4くらいのサイズで描くことが多いです。そこで出来たイメージを、版木に拡大して写しています。

—- やはり、最初の下図のとおり正確に、というよりは、彫りながらだんだん変わっていくものですか。

小林 きっちり下図のとおりにはならないですね。彫り進めて試し刷りをしながら、また彫っていく、そんなふうに制作を進めることが多いです。彫ることイコール描くこと、という感覚が強いです。

—- 小林さんの作品づくりはとても細かな作業ですから、制作にはずいぶん時間がかかるのではないかと想像します。例えばこの作品(図1)などは、完成までにどのくらいかかるんでしょう。

小林 制作だけやっていた頃は、例えばこのサイズ(3裁:三六判ベニヤを3つに裁断したもの)ですと、だいたい半月くらいかかっていました。今は平日仕事をしながらの制作なので、ひと月くらいはかかってしまいます。

—- いま、制作にかける時間は1日何時間くらいなんでしょう。

小林 だいたい3〜4時間くらいでしょうか。

—- やりだすと止まらない…みたいな感じですか。

小林 いえ、ずっと彫っていると飽きてしまうので(笑)、途中で小さな色のある作品などを作りながら…息抜きしながら制作しています。

—- 色のある作品づくりが息抜きになる! 

小林 大きな作品の場合、細かな作業をひたすら続けますから、おかしくなってしまいそうで(笑)。ちょっと違うものを作って、ホッとして、また戻って来る、みたいな感じでしょうか。

—- そうすると、何点か同時並行で制作することも…。

小林 はい、そういうこともあります。

—- 今回、窓のところに置いてある、小さな作品(図3)などは、色鉛筆などを使って描いてらっしゃいますね。

小林 これも、大きな作品を作っている合間の、息抜きのようなものですね。モノクロの世界にずっと浸っていますから、色が欲しい!という欲求をここで満たして(笑)、また作品に戻っていきます。



図3 窓際に展示された小作品(一部)


4 光をえがく

—- 細かな点を穿って、モノトーンの画面をつくるという独特の制作は、木版画を始めたときからずっと変わらないのでしょうか。

小林 このスタイルが固まったのは、大学の卒業制作の時です。それまでは、色を使って、大きな彫りもして、という感じだったのですが…。ずっと、光を描きたいと思っていまして、イメージを突き詰めていくと、光子というのは丸いものなのではないか、と。その光子、光の粒を集めて、光をつくる。そんな考えが出てきました。でも、そんなことを卒業制作でやっても絶対笑われる、と思って(笑)。それまでの制作からがらりと変わってしまうこともあり….。でも、そうした考えが、自分の信条というか、性質と合致すると思えたので…。

—- 思い切って変えた、というか変わった、と。それについてのジレンマというか、葛藤みたいなものは…。

小林 恐怖心みたいなものはありました。でも、思い切って飛び越えて、よかったと思います。

—- なるほど。光を描きたい、ということなんですね。考えてみると、版木に小さな穴を穿つということは、結果的に、刷られるイメージの中に光を生み出す、光を作る、ということになりますよね。ならば、小林さんが版画の世界に飛び込み、このようなスタイルで制作をおこなっているのは、ある意味必然的なことのようにも思えます。
小林さんが版面に穿った無数の点は、光だけでなく、生命のようなものも感じさせることがあります。例えば《ひかりにうたう》という作品…。

小林 はい、2〜3年前までは、丸いかたまりのようなかたちをモティーフとして使っていまして…半抽象、半具象というか、具体的なもののイメージを固定させないかたちというのがテーマにあったんです。例えば星型を描くと、星をイメージしてしまいますよね。そういう(既成の)イメージにとらわれないかたちって何だろうと考え、見る人の感性や印象に委ねるものを目指しました。

—- これはマリモ?なんていく感想をよく聞きます。

小林 はい、そう言われます(笑)。

—- 光を描こうとしつつ、それが結果的に生命を想起させるような、そんな作品でもありますね。



図4 《ひかりにうたう》 2014年 木版・和紙 60.0×183.0cm


5 これからの制作

—- 今回、版木をぜひ展示してほしい!とお願いしましたが(図5)…。

小林 恥ずかしいですね(笑)。版木はふつう出さないものですから。




図5 《やさしさの選択》版木

—- でも、それによって制作のようすがとてもわかりやすかった、という声もいただきます。版木にも触っていただけるので…。それに、この物質感というか、迫力は、実際に見ていただかないと通じませんし。こういうものに日々取り組んでいらっしゃるのだということを感じていただけたのではないかと思います。

小林 ありがたいです。版画をやってらっしゃる方からは、触りたい!とよく言われるので、今回もお客様にはぜひ触っていただきたいです。

—- では最後に、これからやってみたいこと、目指したいことなどあれば、お聞かせください。

小林 大きな作品をもっと作りたいな、という欲求が出てきました。それと、今回も出品しているのですが(図6、7)、ひとつの版木を使って、複数のイメージを作るということにも、取り組んでみたいです。



図6 右側の壁下段左より《cosmic sound-2》、《cosmic sound-1》、《cosmic sound-3》 2017年 いずれも木版・和紙 45.5×60.0cm




図7 《cosmic sound-4》 2017年 木版・和紙 45.5×60.0cm

—- この4点、全部ひとつの版木から刷られたものなんですか?

小林 そうです。版の位置を変えたりずらしたりして…どこまでイメージを拡げられるか。今後さらに挑戦してみたいと思っています。


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「真摯」ということばが、これほど似合う作家も珍しい。小林の制作は、構想からエスキース、版木作り、そして刷りに至るまで、実に真摯な態度に貫かれている。「ストイック」とは少し違う。なぜなら、作家は極度に完璧さを求めないからだ。あくまで地道に、時には粘っこく、版に立ち向かい、刷りを重ねる。そこに「間違いがあってもいい」と作家がいうのは、あるがままの自分を受け入れ、虚飾や無理なそぎ落としを介入させず、文字通り真摯に制作に向かっていることの表れでもある。
「光を描く」という作家の目標は、絵画の根本問題でもある。だから、古来画家は光の状態、ありようをどう把握するかに腐心してきた。小林は木版に無数の点を穿つことで、この問題に自分なりの答えを示そうとしている。
世界は基本的に闇である。そこに光が差し込むことで、はじめて闇は闇として立ち上がる。彫られる前の版面が漆黒の闇だとすれば、そこにある形態を彫ることで、イリュージョンとしての光が差し込む。作家はイリュージョンの外郭をそのまま線で彫ることを良しとせず、光の状態を点およびその集合体と考え、直径3〜5mmの幾千幾万の点を穿ち、闇に光を浮かべる。静かな、しかし途方もない作業の先にあらわれるかたちは、時に星団や星雲のような果てしない世界へと我々を誘う。
宇宙は、我々の内的世界の状態と近しいもののように感じると小林はいう。こうした幻想は、ともすれば甘美な文学的詩情に耽溺する危うさを持つ。しかし、作家はそれに抗うように、モノクロームの版を重ねることでぐいぐいと押し切る。実はここに、作家の真の力量が示されているのではないだろうか。過度な詩情を排し、絵画における技術と表現の問題を独自のアプローチで追究し続けた福沢一郎の遺伝子は、こんなところにも受け継がれているように思われる。
地味に地道に制作を突き詰めてきた小林は、いま進むべき方向を確かに見定め、版画の新たな可能性をも模索し始めている。今後も自分らしく、真摯に版とイメージの世界を探究してほしいと、切に願う。(伊藤佳之)




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※このインタビュー記事は、10月28日(土)におこなわれたギャラリートークの内容を編集し、再構成したものです。
※ 図番号のない画像は、すべて会場風景および外観






「わたしの福沢一郎・再発見」  #005《鳥の母子像》1957年 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館蔵

《鳥の母子像》

1957年 油彩・カンヴァス 116.5×91.0cm
富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館

五十嵐 純
アーツ前橋 学芸員

 2017年夏、現在私の勤めている美術館、アーツ前橋で多様な鑑賞のあり方をテーマとした展覧会「コレクション+ アートの秘密 私と出会う5つのアプローチ」を開催しました。この展覧会では、一人の作家の個人史とつなげて作品を鑑賞する「作家」の章で福沢先生を取り上げ、戦前から70年頃までの作品を1点ずつ計8点紹介させてもらいました。多くの方が、同じ画家が描いた作品なのか?と驚いたことと思います。
このウェブサイトの特設ページ「福沢一郎のことば・再発見」にもあるように、「おれはシュルレアリストなんかじゃねえよ」という先生の言葉は、ひとつの表現に縛られる事なく変化を続けた作品群を見ることで、自ずとその意味が理解できます。日本を代表するシュルレアリストとしての評価はさることながら、私にとっての福沢先生の一番の魅力は、その後の自由な表現方法の変化にあります。8点の作品を時代ごとに紹介させてもらった中で、最も印象に残っているのは《鳥の母子像》です。戦中戦後の激動の時代を経て、中南米へ旅に出た後の作品ですが、大胆な画面分割と原色を用いた色彩は、それまでの彩度を抑え、白みがかったグラデーションの幅で具象的に世界を捉えた作品とは真逆と言っていいほどの変化が見てとれます。表現に対する貪欲さと同時に、世界中を旅し、多様である世界をそのまま受け入れる懐の深さがあったのではないかと推測しています。ぜひ、一枚のお気に入りの作品から、その前後をたどり、福沢一郎先生の画業を見る事をお勧めします。
最後に、先生と呼ばせていただいているのは、私自身、多摩美術大学の油画専攻を卒業し、幸いにもその際「福沢一郎賞」をいただきました。大学院に進学せず、就職をした訳でもなかった私は、卒業後すぐに海外にでかけ、恒例となっている記念館訪問をできなかったことに、後ろめたさを感じておりましたが、いま思えば「行って来い」と背中を押してもらえたのではないかと思っています。福沢先生の作品を見るたびに、「世界を見ろ、変化を恐れるな」とメッセージをもらえているような気がしています。



五十嵐純(いがらし・じゅん)アーツ前橋学芸員。1984年生まれ。2009年多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業、福沢一郎賞受賞。2015年より現職。主な担当展覧会に、「Art Meets 04 田幡浩一/三宅砂織」、「フードスケープ 私たちは食べものでできている」、「ここに棲む 地域社会へのまなざし」など。


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「わたしの福沢一郎・再発見」特設ページは、→こちら。

生誕120年に向けたキャンペーン「福沢一郎・再発見」の詳細は、→こちら。

【展覧会】「PROJECT dnF」第5回 蓬󠄀田真「display」、第6回 小林文香「静かな音をみる」

福沢一郎記念美術財団では、1996年から毎年、福沢一郎とゆかりの深い多摩美術大学油画専攻卒業生と女子美術大学大学院洋画専攻修了生の成績優秀者に、「福沢一郎賞」をお贈りしています。
この賞が20回めを迎えた2015年、当館では新たな試みとして、「PROJECT dnF ー「福沢一郎賞」受賞作家展ー」をはじめました。
これは、「福沢一郎賞」の歴代受賞者の方々に、記念館のギャラリーを個展会場としてご提供し、情報発信拠点のひとつとして当館を活用いただくことで、活動を応援するものです。

福沢一郎は昭和初期から前衛絵画の旗手として活躍し、さまざまな表現や手法に挑戦して、新たな絵画の可能性を追求してきました。またつねに諧謔の精神をもって時代、社会、そして人間をみつめ、その鋭い視線は初期から晩年にいたるまで一貫して作品のなかにあらわれています。
こうした「新たな絵画表現の追究」「時代・社会・人間への視線」は、現代の美術においても大きな課題といえます。こうした課題に真摯に取り組む作家たちに受け継がれてゆく福沢一郎の精神を、DNA(遺伝子)になぞらえて、当館の新たな試みを「PROJECT dnF」と名付けました。

今回は、蓬󠄀田真(多摩美術大学卒業、1996年受賞)と、小林文香(女子美術大学大学院修了、2012年受賞)のふたりが展覧会をおこないます。
ふたりは福沢一郎のアトリエで、どのような世界をつくりあげるのでしょうか。

なお、アトリエ奥の部屋にて、福沢一郎の作品・資料もご覧いただけます。


第5回
蓬󠄀田真「display」


《クラリネット》  2017年 水彩・紙

楽器や果物などの身近なモティーフと、さまざまな柄の布や紙を組み合わせた精緻な静物画を一貫して制作している作家が、受賞作品から近作までの選りすぐりを展示します。
また、近年作家が取り組んでいる「カルトナージュ」(ラッピングペーパーで装飾された小箱)も併せてご紹介します。

10月8日(日)-21日(土) 12:00 – 17:00  観覧無料
木曜定休
レセプション 10月9日(月・祝) 16:00 – 17:00

☆ワークショップ「紙の小箱をつくる」 

さまざまなデザインが施された紙を貼って箱を装飾する「カルトナージュ」の体験ワークショップをおこないます。展示作家の蓬󠄀田真が講師をつとめます。
日時:10月14日(土) 14:00-16:00
費用:無料
人数:先着15名様
応募:メールにて受付けます。
※10/13更新:定員になりました。お申込みありがとうございました。


《イエローテーブル》  1996年 油彩・キャンバス 

第6回
小林文香「静かな音をみる」

無数の点を版木に穿ち、刷る。点の集合体は淡く輝く光となり、ざわざわとうごめく生命や、流動する宇宙を感じさせる。そんな制作をおこなう作家が、当館で新たな展示の可能性をさぐります。

10月27日(金)- 11月8日(水) 12:00 – 17:00  観覧無料
木曜定休
ギャラリートーク、レセプション 10月28日(土) 15:00 – 17:00


小林文香 《やさしさの選択》 2016年 木版・和紙

【イベント情報】講演会「「もうひとりの福沢一郎―画集『秩父山塊』にみる科学者の眼」」報告

2017年春の展覧会「福沢一郎、『本』の仕事と絵画」展の関連イベントとして、講演会「もうひとりの福沢一郎―画集『秩父山塊』にみる科学者の眼」が、5月24日(水)に開催されました。

講師にお招きしたのは、地質学者で元埼玉県立自然の博物館館長の、本間岳史さん。本間さんのお父様、本間正義さんは、国立国際美術館や埼玉県立近代美術館の館長を歴任された美術史学者で、東京帝国大学在学中に「福沢一郎絵画研究所」に通っていたこともあり、福沢一郎と親交がありました。「畑違いだったので全くそんなことは知らなかった」とおっしゃる本間さんでしたが、お父様の本棚から偶然見つけた『福澤一郎の秩父山塊』(池内紀のちいさな図書館、1998年刊)から、その原本が1944年に刊行されたことを知り、その本にちりばめられた地学の知識に驚いたそうです。さらに福沢は、現地へ出かけるに際しては、地質学的な疑問や課題を自分なりに設定し、それを念頭におきながら歩き、観察し、スケッチしました。そこには、画家であると同時に自然科学者としての眼をもった、もうひとりの福沢像を見い出すことができるとのことです。

※詳しくは、本間岳史さんによる「わたしの福沢一郎・再発見」#004『秩父山塊』をお読みください。


(講師の本間岳史さん。右手には『秩父山塊』原本(1944年刊))

今回の講演会では、福沢一郎が辿った秩父の山々、その地形の特徴や、『秩父山塊』に挿入されたスケッチと実際の地形の比較など、まさに『秩父山塊』の魅力を地学的に解きほぐす、非常に刺激的なものでした。特に、福沢一郎が本に記した地形の特徴や魅力を、その生成過程や地学的重要性などから語ってくださる本間さんの口調は、穏やかな中にも熱意がこもり、聴講なさった皆さんも、時間の経つのを忘れて、本間さんのお話に聞き入っていました。

講演会の内容は今秋発行の『記念館ニュース』に掲載予定です。

(2017年7月30日)

【展覧会】「福沢一郎、『本』の仕事と絵画」展 会場風景

2017年春の展覧会 「福沢一郎、『本』の仕事と絵画」展ー「福沢一郎・再発見」vol.2ー の会場風景をご紹介します。

これまであまり顧みられてこなかった、福沢一郎の装幀や挿絵の仕事。念願かなって、ようやく展覧会というかたちで、みなさまにお見せすることができました。
今回は仕事の特徴がよくわかるよう、時代ごとに区切って、本の仕事と絵画作品を交互に展示しました。画像中央の《雲》(1938年)は、同年春発行の雑誌『アトリエ』第15巻第5号の表紙と、テーマや色遣いがとても近い作品です。表紙の作品《雲(夕)》(現存未確認)は1938年春の独立展の出品作で、今回展示した《雲》は、《雲の峰》というタイトルで同年秋の個展に出品されたものであることがわかっています。

1940年代、太平洋戦争直前と終戦直後の時期は、特に興味深い仕事が多くみられます。
妻一枝が翻訳をつとめたレイチェル・フィールド著『地のさち天の幸』(1940年)や、仙台二高時代からの親友木暮亮(菅藤高徳)の初単行書『檻』(同年)などの装幀は、福沢自身にとっても思い出深い仕事であったことでしょう。
そして大田洋子著『屍の街』(1948年)など、終戦直後の装幀や挿絵には、荒涼とした大地に裸体群像がうごめく様子が描かれます。

展示室南側の白い漆喰壁に掛かるのは、《女性群像》(1949年)。これも裸体群像ですが、黄色や緑などの鮮やかな色が大胆に配置されたユニークな作例です。

階段奥の小部屋には、主に1950年代の仕事を集めました。装幀・挿絵の仕事が最も多彩なのがこの時期です。唯一残る絵本『みにくいあひるのこ』(1950年)や、挿絵を手掛けた『耳なし芳一』(1950年)など、児童書の仕事はこの時期に集中しています。上の画像右側には、『みにくいあひるのこ』で使用されなかったと思われる水彩画を展示しました。

背の高い展示棚には、装幀を手掛けた書物をたくさん収め、主だった仕事をキャプション付きで展示しました。柴田錬三郎の直木賞受賞作『イエスの裔』(1952年)ではコラージュによる装幀を試み、大江健三郎のデビュー作『死者の奢り』(1958年)では中南米旅行後の強烈な色彩と筆遣いを存分に活かして表紙絵を描きました。

覗きケースには、装幀の指定原稿や表紙絵の原画などを集めました。こうした原稿が画家の手許に遺されていたのは珍しいことなのではないでしょうか? いずれも福沢の『本』の仕事を知るうえで重要な資料です。

また、この小部屋には《犬と骨》という不思議な作品も展示しました。暗い色調で描かれた犬と、幾何学模様の鮮やかな地面、そして背景の蝙蝠傘が奇妙なコントラストを成しています。この蝙蝠傘、50年代のいくつかの作品と、『渇いた心 黒田三郎詩集』(1957年)の装幀にあらわれる、案外レアなモティーフです。

さて、今回の展覧会では、「特集『秩父山塊』+『アマゾンからメキシコへ』」というコーナーをもうけ、ふたつの特徴ある書物を掘り下げてご紹介しました。
『秩父山塊』(1944年)は、太平洋戦争のさなか、秩父の山々を歩きながらその風景を興味深く眺め描いたスケッチと文章による画文集です。殊に地質学に関する知識をベースにした風景の捉え方はユニークで、その知識の深さは現役の地質学者も舌を巻くほどです。
また『アマゾンからメキシコへ』(1954年)は、カメラ片手に中南米を旅行した際の体験をもとにした書物で、こちらは人類学の知識が豊富に盛り込まれるほか、近現代の美術にも目が向けられています。また、スケッチのかわりに写真図版が豊富に盛り込まれており、時代の変化を感じさせます。
旅した場所や興味の方向は違いますが、このふたつの書物はじつに似た造りになっていて、『秩父山塊』の10年後に『アマゾンからメキシコへ』が出版されたのは、決して偶然ではなく、『秩父山塊』リバイバル!とでもいうような、福沢の強い意志が働いたものではないかと想像されます。

上の画像右側、アトリエ北側のコーナーには、1960年代以降の本の仕事を集めました。地元富岡市の詩人斎藤朋雄の詩集『ムシバガイタイ』(1965年)、約8年間カットや表紙絵を提供していた雑誌『自由』(表紙絵は1969〜1974年)、メキシコ滞在時に知己を得た外交官伊藤武好の訳による、ホルヘ・イカサ著『ワプシンゴ』(1974年)、そして山本太郎著の詩集『ユリシイズ』(1975年)など、多彩な仕事がみられます。この頃になると、装幀をどう考慮するかという問題意識よりも、純粋に画家として「絵」を提供することに主眼が置かれた仕事が目立ちます。

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「福沢一郎・再発見」vol.2として開催した今回の展覧会、意欲的な取り組みと評価をいただいておりますが、「福沢一郎・再発見」の試みはまだまだ続きます。今後もユニークな展覧会や企画、情報発信を続けていきたいと思います。
展覧会詳細は、→こちらから。

【展覧会】「福沢一郎、『本』の仕事と絵画」展 5/12 – 6/19, 2017


このたび、当館では、「福沢一郎・再発見」シリーズの第2弾として、春の展覧会「福沢一郎、『本』の仕事と絵画」展を開催いたします。
読書家であった福沢は、芸術や文学のみならず、地学や考古学、民族学など、じつに幅広い書物を渉猟しました。読書によって得た知見や発想は、絵画作品の重要な主題となるほか、自らの著書に活かされることもありました。
また、彼は画業の初期から晩年に至るまで、多くの装幀や挿絵を手がけました。これらの仕事には、タブローでは成し得ない表現を追究する画家としての矜恃と、書物を愛する穏やかな心持ちが共存しているように感じられます。
今回の展覧会では、これまでまとまって紹介されることのなかった、福沢が手がけた装幀本と挿絵本、およびその原画やデザインを、同時代の作品とともに紹介し、その制作のエッセンスにせまります。
また今回は、1944年刊行の著書『秩父山塊』を取り上げた特集コーナーを設け、本書のなかで実際に使われた挿絵原稿や、地学の知識のもととなった専門書などを展示します。紀行文としても、画集としてもすぐれた本書の魅力を、存分に楽しんでいただけるものとなるでしょう。この機会にぜひごらんください。


左:『福沢一郎画集』1933年 右『秩父山塊』挿絵 1943年頃


『アマゾンからメキシコへ』写真ページ 1954年


左:大田洋子著『屍の街』1948年 中:大江健三郎著『死者の奢り』1958年 右:雑誌『自由』1970年9月号


《習作》1975年頃 アクリル・板



会 期:2017年5月12日(金)〜6月19日(月)の日・月・水・金開館
12:00-17:00
入館料:300円

※講演会開催のお知らせ
「もうひとりの福沢一郎―画集『秩父山塊』にみる科学者の眼」
講師:本間岳史氏(地質学者、元埼玉県立自然の博物館館長)
日時:5月24日(水) 14:00〜16:00
場所:福沢一郎記念館
会費:1,500円(観覧料込)
※要予約、先着40名様(電話・FAXにて受付)

<お問い合わせ:お申し込みはこちらまで>
TEL. 03-3415-3405
FAX. 03-3416-1166

福沢一郎記念館 研究紀要

福沢一郎記念館では、2016年より、研究紀要を発行することになりました。
この紀要は、福沢一郎をはじめとしてその周辺の作家、および昭和の芸術運動に関する調査報告や論文等を掲載し、日本近現代美術研究の一助とすることを目的としています。

※ 紀要は当面PDFのみにて発行いたします。データの配布をご希望の方は、お問い合わせフォームからお申し込みください。
お名前と、紀要の配布希望理由をお書き添えください。

※ 紀要のPDFデータは、個人の調査。研究のための使用のみ許可します。それ以外の用途での使用、及び許諾なく改変、複製、配布することを禁止します。


第1号 全28頁
・那覇市民ギャラリーの「福沢一郎展」によせて
作品収蔵の経緯と同時代の沖縄    久田五月
・記録:現代アート研究会vol.9
「沖縄少年会館に贈られた福沢一郎作品について」
2015 年3 月4 日 沖縄県立芸術大学
語り手:土屋誠一、久田五月
・〔調査報告〕福沢一郎 戦時下の記録 1941-1945
伊藤佳之



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キャンペーン「福沢一郎・再発見」の詳細は、→こちらから。

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「わたしの福沢一郎・再発見」  #004『秩父山塊』

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『秩父山塊』

1944年  アトリエ社 東京 88頁

本間岳史
元埼玉県立自然の博物館長

 2001年に父(正義)が亡くなってしばらくたった頃、浦和の実家で父の書庫を覗いていた私は、『福澤一郎の秩父山塊』(1998)という小さな本を見つけた。福沢一郎の画集『秩父山塊』(1944)をドイツ文学者の池内紀が新たに編集し、判型を縮小して出版した復刻本である。私は、秩父地方の玄関口にあたる長瀞町の埼玉県立自然の博物館に長く学芸員として勤務していたので、“秩父山塊”というタイトルが目に飛び込んできたのである。図版は、奥秩父の山や谷の風景を黒色の写生用鉛筆等を用いて描いたもので、驚いたことに、それぞれのスケッチには、侵蝕、古生層との境界、秩父鉱山、石炭紀-二畳紀、中生層の露出、岩の襞(橋立鍾乳洞)、河原沢(地溝帯)など、モチーフとなった地域の地質学的所見や専門用語がちりばめられていた。そこには、福沢の地質学に関する造詣の深さや、事前に地質学的な課題を設定して現地で確認しようとする実証的な姿勢がうかがわれた。
地質学という美術とは無縁の分野を選んだ私は、福沢一郎と父の関係を知るよしもなかったが、この本をきっかけに福沢一郎の地質学者的側面に興味をもち※、父の著作『ハイトマルスベル』(1989)を読み直したり、板橋区立美術館の展覧会図録『福沢一郎絵画研究所 展』(2010)などを読み、父が学生時代に動坂の福沢絵画研究所に毎晩のように通い、福沢一郎から油彩画の手ほどきを受けていたことを知った。私はその後、福沢一郎記念館を訪ね、福沢一也御夫妻や美術館の関係の方々とお会いして話がはずみ、『秩父山塊』に描かれた場所を訪ねるツアーを企画しようということになっている。
父は新潟県長岡市の電気工務店の6人兄妹の長男として生まれ、家業を継ぐことを望まれていたが、理数系が苦手ないっぽう美術への志が強く、知人の助けも借りて親を説得し、仙台の第二高等学校を経て東京帝国大学文学部に進学した。福沢一郎と同じコースをたどっているのは興味深い。父は福沢を、白皙の風貌をもった冷静なプロフェッサーを思わせる一面と、べらんめぇ調の話しぶりや絵の表現から感じとれる理屈からはみ出た壮大なロマンを求める一面、すなわち二律背反するものが混じり合って福沢一郎の人間形成がなされ、凡人の及ばないスケールでのロマン世界が打ち立てられているのではないかと評している。『ハイトマルスベル』には、父が会った145人の美術家の人物像が語られているが、福沢一郎は、平櫛田中、アンドリュー・ワイエス、佐藤忠良らとともに、「忘れ得ぬ人々」の一人として取り上げられている。父が生前親交のあった数多くの美術家のなかでも、福沢一郎は特別な存在であったことがうかがえるのである。

※本間岳史(2014)画家・福沢一郎と地質学─画集『秩父山塊』から─.地学教育と科学運動,72号,83-91.掲載誌は www.chidanken.jp/09_2.html から入手可(本間岳史会員の紹介と明記, 600円, 送料無料)

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本間岳史(ほんま・たけし) 地質学者。1949年生まれ。新潟大学大学院理学研究科地質鉱物学専攻修了。1981年開館の埼玉県立自然史博物館(現在の埼玉県立自然の博物館)に準備段階から関わり、学芸員として勤務。埼玉県立川の博物館館長、埼玉県立自然の博物館館長を歴任。


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「わたしの福沢一郎・再発見」特設ページは、→こちら。

生誕120年に向けたキャンペーン「福沢一郎・再発見」の詳細は、→こちら。