【展覧会】「発掘!福沢一郎 120年めの『再発見』」会場風景

2018年春の展覧会 「発掘!福沢一郎 120年めの『再発見』」 の会場風景をご紹介します。

今回の展覧会は、タイトルの示すとおり、知られざる福沢一郎の魅力を「再発見」しようという試みでした。つまり、今まであまり美術館やギャラリーなどで紹介されてこなかった福沢一郎の制作を前面に出して、その面白さ、豊かさをご紹介することを目的としました。

記念館内東側の大きな壁を飾るのは、主に晩年に描かれた、花と壺の絵です。しかも今回はあえて額に入れず、福沢のアトリエという雰囲気も活かしながら、作品を身近に楽しんでいただこうと考えました。

大きくて生命力の強そうな花は、福沢の描く人間像に似た存在感を放ちます。また壺の絵は、おそらくは古代ギリシャの壺をヒントにしていると思われますが、モティーフはエジプト壁画、イランの建築レリーフ、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画、そして卑弥呼など、じつに多彩です。彼がその都度想像をふくらませ、独自の世界をつくりあげようとしていたことがわかります。

南側の壁(上画像左側)には「旅する福沢一郎」と題して、時空を超えた画家の「旅」をお楽しみいただける作品を並べてみました。ブルターニュの海辺やスペインの闘牛場、そしてハワイなど、実際に訪れた場所の風景や人々の印象を描いたものから、ダンテ『神曲・地獄篇』や『ドン・キホーテ』など物語の世界へも、彼は知的な旅を試み、その成果としてユニークな作品を描いています。
また、西側の壁(上画像右側)には、山梨県立美術館所蔵の大作《失楽園》のための習作を展示しました。作品じたいも、またそのために描かれた習作も画家本人はとても気に入っており、「制作資料展」と称して習作による個展を行ったほどです(1980年、ギャラリージェイコ)。力強く闊達に悪魔の肉体が描かれるかと思えば、ほどよく力の抜けた線で動物たちが表現されたりと、習作といえどもたいへんユニークなものばかりです。

北側のコーナーには、ちょっと不思議な作品をふたつ展示しました(上画像参照)。左側は、制作年のわからない《農耕》というタイトルの作品です。使われている絵具の色や、荒涼とした大地に人間を配する作風から、1946年頃の作品ではないかと推測されます。観覧者の方々からは、これはどこの風景? 何を作っているの? ぜんぜん作物が育たなさそう!など、いろいろな疑問やご意見をいただきました。
右側の作品は、マックス・エルンストのコラージュに影響を受けて制作されたと思われる、1930年作の《静物》です。人の手が大きく描かれている「静物」というのもなかなか謎めいていますし、画面の端に塗り残しが多いのも気になります。これは描きかけ? それともこういう絵にしたかったの? それはなぜ? など、こちらもさまざまな疑問が浮かんできます。こうした謎について、あれこれ思いをめぐらすのも、作品を楽しむひとつの方法ですね。

奥の小部屋には、「旅する福沢一郎」の特設コーナーを作りました。テーマは東北・北海道です。
1950年から51年にかけて、福沢はまず北海道、そして次に東北を旅します。浜辺に打ち上げられたクジラやかまくらなど、見知らぬ土地で得たモティーフは、終戦直後やや混沌とした状況にあった彼の制作に、わずかながら転機をもたらすものであったようです。
《山寺新緑》は、岩壁に萌えたつ色鮮やかな若葉が、画家に与えた活力を感じさせる作品です。

この部屋の展示ケースには、1951年に秋田を旅していた福沢のもとに届いた手紙をふたつ展示しました。これらは、服部・島田バレエ団の創立者のひとり島田廣の筆によるもので、バレエ作品「さまよえる肖像」の舞台美術についての相談・要望と、その舞台装飾原画が到着したお礼が、それぞれ記されています。秋田の旅館で彼が新作バレエ(しかも相当観念的でマニアックな!)の舞台美術についての構想をしていたことがわかる、とても面白い資料です。

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2018年は福沢一郎の生誕120年。秋から来年春にかけて、福沢一郎の展覧会が続きます。それらの中でも、きっといろいろな「再発見」があることと思いますが、当館による福沢一郎の発掘!は、まだまだ続きます。どうぞお楽しみに。
展覧会詳細は、→こちらから。

「わたしの福沢一郎・再発見」  #005《鳥の母子像》1957年 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館蔵

《鳥の母子像》

1957年 油彩・カンヴァス 116.5×91.0cm
富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館

五十嵐 純
アーツ前橋 学芸員

 2017年夏、現在私の勤めている美術館、アーツ前橋で多様な鑑賞のあり方をテーマとした展覧会「コレクション+ アートの秘密 私と出会う5つのアプローチ」を開催しました。この展覧会では、一人の作家の個人史とつなげて作品を鑑賞する「作家」の章で福沢先生を取り上げ、戦前から70年頃までの作品を1点ずつ計8点紹介させてもらいました。多くの方が、同じ画家が描いた作品なのか?と驚いたことと思います。
このウェブサイトの特設ページ「福沢一郎のことば・再発見」にもあるように、「おれはシュルレアリストなんかじゃねえよ」という先生の言葉は、ひとつの表現に縛られる事なく変化を続けた作品群を見ることで、自ずとその意味が理解できます。日本を代表するシュルレアリストとしての評価はさることながら、私にとっての福沢先生の一番の魅力は、その後の自由な表現方法の変化にあります。8点の作品を時代ごとに紹介させてもらった中で、最も印象に残っているのは《鳥の母子像》です。戦中戦後の激動の時代を経て、中南米へ旅に出た後の作品ですが、大胆な画面分割と原色を用いた色彩は、それまでの彩度を抑え、白みがかったグラデーションの幅で具象的に世界を捉えた作品とは真逆と言っていいほどの変化が見てとれます。表現に対する貪欲さと同時に、世界中を旅し、多様である世界をそのまま受け入れる懐の深さがあったのではないかと推測しています。ぜひ、一枚のお気に入りの作品から、その前後をたどり、福沢一郎先生の画業を見る事をお勧めします。
最後に、先生と呼ばせていただいているのは、私自身、多摩美術大学の油画専攻を卒業し、幸いにもその際「福沢一郎賞」をいただきました。大学院に進学せず、就職をした訳でもなかった私は、卒業後すぐに海外にでかけ、恒例となっている記念館訪問をできなかったことに、後ろめたさを感じておりましたが、いま思えば「行って来い」と背中を押してもらえたのではないかと思っています。福沢先生の作品を見るたびに、「世界を見ろ、変化を恐れるな」とメッセージをもらえているような気がしています。



五十嵐純(いがらし・じゅん)アーツ前橋学芸員。1984年生まれ。2009年多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業、福沢一郎賞受賞。2015年より現職。主な担当展覧会に、「Art Meets 04 田幡浩一/三宅砂織」、「フードスケープ 私たちは食べものでできている」、「ここに棲む 地域社会へのまなざし」など。


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「わたしの福沢一郎・再発見」特設ページは、→こちら。

生誕120年に向けたキャンペーン「福沢一郎・再発見」の詳細は、→こちら。

【展覧会】「福沢一郎、『本』の仕事と絵画」展 会場風景

2017年春の展覧会 「福沢一郎、『本』の仕事と絵画」展ー「福沢一郎・再発見」vol.2ー の会場風景をご紹介します。

これまであまり顧みられてこなかった、福沢一郎の装幀や挿絵の仕事。念願かなって、ようやく展覧会というかたちで、みなさまにお見せすることができました。
今回は仕事の特徴がよくわかるよう、時代ごとに区切って、本の仕事と絵画作品を交互に展示しました。画像中央の《雲》(1938年)は、同年春発行の雑誌『アトリエ』第15巻第5号の表紙と、テーマや色遣いがとても近い作品です。表紙の作品《雲(夕)》(現存未確認)は1938年春の独立展の出品作で、今回展示した《雲》は、《雲の峰》というタイトルで同年秋の個展に出品されたものであることがわかっています。

1940年代、太平洋戦争直前と終戦直後の時期は、特に興味深い仕事が多くみられます。
妻一枝が翻訳をつとめたレイチェル・フィールド著『地のさち天の幸』(1940年)や、仙台二高時代からの親友木暮亮(菅藤高徳)の初単行書『檻』(同年)などの装幀は、福沢自身にとっても思い出深い仕事であったことでしょう。
そして大田洋子著『屍の街』(1948年)など、終戦直後の装幀や挿絵には、荒涼とした大地に裸体群像がうごめく様子が描かれます。

展示室南側の白い漆喰壁に掛かるのは、《女性群像》(1949年)。これも裸体群像ですが、黄色や緑などの鮮やかな色が大胆に配置されたユニークな作例です。

階段奥の小部屋には、主に1950年代の仕事を集めました。装幀・挿絵の仕事が最も多彩なのがこの時期です。唯一残る絵本『みにくいあひるのこ』(1950年)や、挿絵を手掛けた『耳なし芳一』(1950年)など、児童書の仕事はこの時期に集中しています。上の画像右側には、『みにくいあひるのこ』で使用されなかったと思われる水彩画を展示しました。

背の高い展示棚には、装幀を手掛けた書物をたくさん収め、主だった仕事をキャプション付きで展示しました。柴田錬三郎の直木賞受賞作『イエスの裔』(1952年)ではコラージュによる装幀を試み、大江健三郎のデビュー作『死者の奢り』(1958年)では中南米旅行後の強烈な色彩と筆遣いを存分に活かして表紙絵を描きました。

覗きケースには、装幀の指定原稿や表紙絵の原画などを集めました。こうした原稿が画家の手許に遺されていたのは珍しいことなのではないでしょうか? いずれも福沢の『本』の仕事を知るうえで重要な資料です。

また、この小部屋には《犬と骨》という不思議な作品も展示しました。暗い色調で描かれた犬と、幾何学模様の鮮やかな地面、そして背景の蝙蝠傘が奇妙なコントラストを成しています。この蝙蝠傘、50年代のいくつかの作品と、『渇いた心 黒田三郎詩集』(1957年)の装幀にあらわれる、案外レアなモティーフです。

さて、今回の展覧会では、「特集『秩父山塊』+『アマゾンからメキシコへ』」というコーナーをもうけ、ふたつの特徴ある書物を掘り下げてご紹介しました。
『秩父山塊』(1944年)は、太平洋戦争のさなか、秩父の山々を歩きながらその風景を興味深く眺め描いたスケッチと文章による画文集です。殊に地質学に関する知識をベースにした風景の捉え方はユニークで、その知識の深さは現役の地質学者も舌を巻くほどです。
また『アマゾンからメキシコへ』(1954年)は、カメラ片手に中南米を旅行した際の体験をもとにした書物で、こちらは人類学の知識が豊富に盛り込まれるほか、近現代の美術にも目が向けられています。また、スケッチのかわりに写真図版が豊富に盛り込まれており、時代の変化を感じさせます。
旅した場所や興味の方向は違いますが、このふたつの書物はじつに似た造りになっていて、『秩父山塊』の10年後に『アマゾンからメキシコへ』が出版されたのは、決して偶然ではなく、『秩父山塊』リバイバル!とでもいうような、福沢の強い意志が働いたものではないかと想像されます。

上の画像右側、アトリエ北側のコーナーには、1960年代以降の本の仕事を集めました。地元富岡市の詩人斎藤朋雄の詩集『ムシバガイタイ』(1965年)、約8年間カットや表紙絵を提供していた雑誌『自由』(表紙絵は1969〜1974年)、メキシコ滞在時に知己を得た外交官伊藤武好の訳による、ホルヘ・イカサ著『ワプシンゴ』(1974年)、そして山本太郎著の詩集『ユリシイズ』(1975年)など、多彩な仕事がみられます。この頃になると、装幀をどう考慮するかという問題意識よりも、純粋に画家として「絵」を提供することに主眼が置かれた仕事が目立ちます。

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「福沢一郎・再発見」vol.2として開催した今回の展覧会、意欲的な取り組みと評価をいただいておりますが、「福沢一郎・再発見」の試みはまだまだ続きます。今後もユニークな展覧会や企画、情報発信を続けていきたいと思います。
展覧会詳細は、→こちらから。

「わたしの福沢一郎・再発見」  #004『秩父山塊』

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『秩父山塊』

1944年  アトリエ社 東京 88頁

本間岳史
元埼玉県立自然の博物館長

 2001年に父(正義)が亡くなってしばらくたった頃、浦和の実家で父の書庫を覗いていた私は、『福澤一郎の秩父山塊』(1998)という小さな本を見つけた。福沢一郎の画集『秩父山塊』(1944)をドイツ文学者の池内紀が新たに編集し、判型を縮小して出版した復刻本である。私は、秩父地方の玄関口にあたる長瀞町の埼玉県立自然の博物館に長く学芸員として勤務していたので、“秩父山塊”というタイトルが目に飛び込んできたのである。図版は、奥秩父の山や谷の風景を黒色の写生用鉛筆等を用いて描いたもので、驚いたことに、それぞれのスケッチには、侵蝕、古生層との境界、秩父鉱山、石炭紀-二畳紀、中生層の露出、岩の襞(橋立鍾乳洞)、河原沢(地溝帯)など、モチーフとなった地域の地質学的所見や専門用語がちりばめられていた。そこには、福沢の地質学に関する造詣の深さや、事前に地質学的な課題を設定して現地で確認しようとする実証的な姿勢がうかがわれた。
地質学という美術とは無縁の分野を選んだ私は、福沢一郎と父の関係を知るよしもなかったが、この本をきっかけに福沢一郎の地質学者的側面に興味をもち※、父の著作『ハイトマルスベル』(1989)を読み直したり、板橋区立美術館の展覧会図録『福沢一郎絵画研究所 展』(2010)などを読み、父が学生時代に動坂の福沢絵画研究所に毎晩のように通い、福沢一郎から油彩画の手ほどきを受けていたことを知った。私はその後、福沢一郎記念館を訪ね、福沢一也御夫妻や美術館の関係の方々とお会いして話がはずみ、『秩父山塊』に描かれた場所を訪ねるツアーを企画しようということになっている。
父は新潟県長岡市の電気工務店の6人兄妹の長男として生まれ、家業を継ぐことを望まれていたが、理数系が苦手ないっぽう美術への志が強く、知人の助けも借りて親を説得し、仙台の第二高等学校を経て東京帝国大学文学部に進学した。福沢一郎と同じコースをたどっているのは興味深い。父は福沢を、白皙の風貌をもった冷静なプロフェッサーを思わせる一面と、べらんめぇ調の話しぶりや絵の表現から感じとれる理屈からはみ出た壮大なロマンを求める一面、すなわち二律背反するものが混じり合って福沢一郎の人間形成がなされ、凡人の及ばないスケールでのロマン世界が打ち立てられているのではないかと評している。『ハイトマルスベル』には、父が会った145人の美術家の人物像が語られているが、福沢一郎は、平櫛田中、アンドリュー・ワイエス、佐藤忠良らとともに、「忘れ得ぬ人々」の一人として取り上げられている。父が生前親交のあった数多くの美術家のなかでも、福沢一郎は特別な存在であったことがうかがえるのである。

※本間岳史(2014)画家・福沢一郎と地質学─画集『秩父山塊』から─.地学教育と科学運動,72号,83-91.掲載誌は www.chidanken.jp/09_2.html から入手可(本間岳史会員の紹介と明記, 600円, 送料無料)

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本間岳史(ほんま・たけし) 地質学者。1949年生まれ。新潟大学大学院理学研究科地質鉱物学専攻修了。1981年開館の埼玉県立自然史博物館(現在の埼玉県立自然の博物館)に準備段階から関わり、学芸員として勤務。埼玉県立川の博物館館長、埼玉県立自然の博物館館長を歴任。


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「わたしの福沢一郎・再発見」  #003《原人のいぶき》

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《原人のいぶき》

1981年 アクリル・カンヴァス 200.0×600.0cm
富岡市立図書館 蔵

大竹夏紀
染色アーティスト

 私は福沢一郎の出身地である富岡市に生まれ、幼少期を過ごしました。そんな私にとって福沢一郎とは我が市民が誇る偉大な芸術家という印象です。その思いは子供のころから根付いたものです。市内の公共施設の至る所で福沢一郎の絵を目にしましたし、市の広報誌などにも紹介されていたと思います。市内には立派な福沢一郎記念美術館もあります。家族に聞くと、祖父の時代では小学校の遠足に福沢一郎の実家見学が遠足に組み込まれていたとか。何より周りの大人たちや学校の先生が、幼い私に場面場面で説明してくれました。みんなが偉大な芸術家を誇らしく思っているのがしみじみと伝わり、私の心にも根付いたのだと思います。
 福沢一郎の絵は、いわゆる田舎の市民が許容して考える普通の美しいだけの絵とは違ってかなり独特で個性的なものに感じました。神話や古代の男たちのゴツゴツした荒々しい姿。ちょっとこわい。でもパワフルでかっこいい!これが真の芸術か!なんて幼心に納得していました。
 福沢一郎の絵で一番印象に残っているのは、市立図書館に今でも飾られている《原人のいぶき》という幅6メートルにも及ぶ大きな絵です。古代人の家族でしょうか。青空の下で地面に寝転んだりくつろぐ姿が描かれています。力強くダイナミックで、広く清々しい世界観を感じます。子供のころは絵本を、小中学生になっても本を借りに行く度に、この絵を目にして、偉大な芸術家が同じまちにいたことをじんわりと誇りに思った、幸せな思い出です。

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Natsuki Otake

大竹夏紀(おおたけ・なつき) 染色アーティスト。1982年、群馬県富岡市生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科デザイン専攻修了。ろうけつ染めによる絵画作品で注目を集める。2010年度東京モード学園テレビCMに作品が起用される。個展・グループ展多数。2014年第11回上毛芸術文化賞受賞。2016年富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館にて個展開催。
公式ホームページ http://bamboosummer.main.jp


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「わたしの福沢一郎・再発見」  #002《男(黄土に住む人)》

福沢一郎 《男(黄土に住む人)

《男(黄土に住む人)》

1940年 油彩・カンヴァス 116.7×91.0cm
群馬県立富岡高等学校 蔵

平出 豊
彫刻家

私は1968年4月、福沢一郎先生の母校である群馬県立富岡高等学校に入学しました。そして美術部に入部、その時はまだ「福沢一郎」の名前も作品も知らずにいます。
13歳の時、父が50歳で亡くなった、父は20歳で徴集、日中戦争・中国大陸にて左足被弾、太平洋戦争が始まり再び徴集・ビルマ(現ミャンマー)戦線、ビルマにて、2年間の捕虜後、帰国。父の青春(10年間余)は全て戦争であった。私は戦争を憎悪する様になります。
富岡高校1年生5月・べ平連バッジ『DO NOT KILL IN VIETNAM(殺すな、ベトナムで)文字・岡本太郎』を胸に付け登校。政治活動として校長室に引きずられていく。校長室で問い詰められながら、壁を見上げると、50号程の絵が掛けてあり、それを眺めて、学校長、先生の言葉が、聞こえなくなった。襤褸を纏った人が坐りこみ上奥に猛禽がいるその絵は、私の心に体の奥まで浸み込んだのです。(後の数度の処分で出会い、救われる)。
1972年私が彫刻を志した時に、その年の美術手帖4月号特集「年表:現代美術の50年1916-1968(上)」を読んでいると1940年のページにその絵があったのです(美術文化協会 第一回展 東京府美術館4・11-19 小さなモノクロ画像、タイトル「男」1940)。小さな写真ですが、その再会にかつての浸み込んだ気が硬直し心が弛緩して、時折そのページを開くようになります。
《男(黄土に住む人)》が発表された翌年に太平洋戦争が始まり、思想も人格も圧せられる時代に、その絵(あるモノ(小さな頭にも診える)に人差し指と親指を浮かし添えて、悲哀、抑怒ともつかぬ顔で凝固してそれを見詰める人)を描くことの福沢一郎先生の眼を開いた厳しい思慮が響いています。
1998年頃、池内紀編『福沢一郎の秩父山塊』を拝読、デッサンと文に、描き造る事の外の関わりの思考実践に揺れる出会いでした。
芸術が人を救い動かすとは簡単に言えませんが、私にとって福沢一郎作《男(黄土に住む人)》が、眼を開き、耳を欹(そばだ)て体を揺すり、次の体をと、教えてくれたことを、私の細胞が確かに覚えて動いています。

 


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平出 豊(ひらいで・ゆたか) 彫刻家。1953(昭和28)年、群馬県安中市生まれ。小畠廣志に師事。1980年第5回群馬青年美術展大賞受賞。1982年第5回上毛芸術奨励賞受賞。群馬県を中心に個展・グループ展多数。
公式ホームページ http://www.hiraide.info


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【キャンペーン】わたしの福沢一郎・再発見

2018年の生誕120年に向けて、画家福沢一郎とその作品の魅力を「再発見」するキャンペーン、2016年夏からスタートする新企画は、「わたしの福沢一郎・再発見」です。
美術家や評論家はもちろんのこと、さまざまな方々にお気に入りの福沢一郎作品を選んでいただき、あれこれ語っていただきます。


第1回 《基督》制作年不詳、宮城県美術館蔵(洲之内徹コレクション)
  語り手:福沢一也(福沢一郎長男、福沢一郎記念館館長)
福沢一郎 《基督》


第2回 《男(黄土に住む人)》1940年 群馬県立富岡高等学校 蔵
  語り手:平出 豊(彫刻家)
福沢一郎《男(黄土に住む人)》


第3回 《原人のいぶき》1981年 富岡市立図書館 蔵
  語り手:大竹夏紀(染色アーティスト)
福沢一郎《原人のいぶき》


第4回 『秩父山塊』1944年 アトリエ社
  語り手:本間岳史(元埼玉県立自然の博物館館長)
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第5回 《鳥の母子像》1957年 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館 蔵
  語り手:五十嵐純(アーツ前橋 学芸員)

 


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キャンペーン「福沢一郎・再発見」の詳細は、→こちらから。

 

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「わたしの福沢一郎・再発見」  #001《基督》

福沢一郎 《基督》

《基督》

制作年不詳 油彩・カンヴァス 33.2×23.9cm
宮城県美術館蔵(洲之内コレクション)

福沢一也
福沢一郎記念館 館長

私の父、福沢一郎の家には基督(キリスト)の磔刑像がコレクションのように保存されていて、私は小さい時から毎日、人形を楽しむように眺めていた。父はこうした像をパリ滞在中に蚤の市で買い集めたのだという。もう今は手に入らないだろうが1900年代の初頭には珍しくなかったのだ。こうしたことがあったせいか、父の絵には基督を描いたものが少なくない。洲之内徹氏が、盗んでも自分のものにしたかった絵を集めた「気まぐれ美術館」に取り入れられた福沢一郎の《基督》もその1点だ。
ところで今回、自分がいちばん気に入っている作品についてのエッセイを書くということになって、この間から、どんな絵が適当かいろいろ考えてみたが、なかなか難しい。考えてみると一番好きな絵というのは、いちばんよくできた絵というのとも違うような気がする。福沢一郎の絵について考えると、最も中心となるのは人間を様々な角度から描いたもの、時代との関わりをテーマとしたもので、表現も力強いいきいきとした傾向だ。今回私はこうした代表作、例えば地獄の絵や神話の世界を描いたものはやめて、この《基督》のような表情の柔らかい作品を好きな1点に選んでみた。
ゴルゴタの丘で磔にあった基督の、寂しくはあるが、高貴な姿に目を向けさせられてしまう。背景となる空が画面のほぼ全体を占めているのも父の見慣れた構成だ。それと雲。福沢一郎の描く白い雲は大好きだが、ここでは7つの同じ形の小さな雲が揃って描かれていて、何とも言えず可愛い。《基督》は33.2×23.9cmの小振りな作品だが、心がすきっとする名作だと思う。

 


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福沢一也(ふくざわ・かずや) 福沢一郎長男。1934(昭和9)年生まれ。一般財団法人福沢一郎記念財団代表理事、福沢一郎記念館館長。


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【展覧会】「福沢一郎のヴァーミリオン」展 10/16 – 11/15, 2015


このたび、当館では、秋の展覧会として、「福沢一郎のヴァーミリオン」展を開催いたします。

「ヴァーミリオン(Vermilion)」とは、鮮やかな明るい赤色の顔料、またはその赤色そのものを指すことばです。今回は「ヴァーミリオン」ということばを「赤」を象徴するものと捉えて「赤」から福沢絵画の色彩に迫ってみようと思います。
福沢一郎はしばしば「カラリスト」と評されてきました。とりわけ赤の使い方はユニークで、ときに画面全体を覆い、ときに上塗りの陰からちらりとのぞき、画面にさまざまな趣を与えています。
今回は、年代やテーマにかかわらず「赤」が印象的な福沢作品を集めました。それぞれの「赤」の鮮やかさや面白さ、そしてそこに込められた意味を感じ取っていただければと思います。
この機会に、ぜひお出かけください。

・出品予定作品

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《インディオの女》1954年


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《争う男》1965年


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《闘牛》1978年


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《卑弥呼》1991年 


会 期:2015年10月16日(金)〜11月15日(日)の日・月・水・金開館
    12:00-17:00 
入館料:300円

※講演会開催のお知らせ
「“赤”から読み解く福沢絵画」
講師:伊藤佳之(当館学芸員)
日時:10月30日(金) 14:00〜15:30
場所:福沢一郎記念館
会費:1,500円
※要予約、先着40名様(FAXも可)

<お問い合わせ:お申し込みはこちらまで>
TEL. 03-3415-3405
FAX. 03-3416-1166

【イベント情報】講演会「近代写真の成立と福沢一郎の写真」報告

展覧会 「福沢一郎の“写真” 画家のレンズが捉えたもの。」の関連イベントとして、講演会「近代写真の成立と福沢一郎の写真」が、5月14日(水)に開催されました。

講師の金子隆一さんは、東京都写真美術館で長く専門調査員・学芸員を勤められ、近代写真の専門家として活躍されているほか、写真集コレクターとしても有名な方です。今回の講演はまず「近代写真」の成立について、その代表的な作例の画像を見ながら解説し、続いて安井仲治、木村伊兵衛、小石清など1930〜1940年代日本の注目すべき写真家の作品についても述べたうえで、福沢一郎の写真について改めて考えてみる、という趣向でした。
近年のデジタルカメラの普及によって、写真というもの、またカメラという装置についても、随分認識が変わってきているように思います。金子さんのお話はそうした我々が陥りやすい誤解を解きほぐしつつ、写真についての認識を深めてくださるもので、眼から鱗が落ちることしばしば。
1924〜31年のパリ滞在中に撮影された、全くアマチュアであったはずの福沢の写真に、19世紀末から20世紀初めのパリで活躍したプロの写真家アジェのそれと共通するものを感じるとおっしゃる金子さんは、近代写真の先駆として神格化されているアジェについて改めて考えるよい機会になったと、福沢の写真との出会いを喜んでくださいました。また、近代日本を代表する写真家野島康三や平尾銈爾と、福沢一郎(福沢家)との意外な関係についてもお話いただき、一部関係者の注目を集めていました。

講演会の内容は今秋発行の『記念館ニュース』に掲載予定です。

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(2014年6月5日)