【展覧会】PROJECT dnF 第12回  馬場美桜子「折り目をあるく」作家インタビュー

PROJECT dnF 馬場美桜子「折り目をあるく」
作家インタビュー

2024年11月 ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


——- 馬場美桜子(ばば・みおこ)
東京都生まれ。2014年 多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業(第19回福沢一郎賞)。 2015年 公益財団法人佐藤国際文化育英財団 第24期奨学生。同年 テラダ・ア ート・ アウォード2015 審査員賞。2016年 同学大学院美術研究科博士前期課程絵画専攻油画研究領域修了(第1回辰野登恵子賞)。2022年 第57回神奈川県美術展 県議会議長賞。 同年 第20回アートギャラリーホーム展 三菱地所レジデンス特別賞。2024年 絵画の筑波賞2024 準大賞。同年 第23回アートギャラリーホーム展 東京メトロ都市開発賞。主な個展に2017年「corpse」(東京九段 耀画廊)、2023年「積み上げられた湿度」(CRISPY EGG GALLERY、神奈川)、2025年「たわむ たゆたう」(同)がある。グループ展参加多数。 ——-


展示風景

記念館での展示について

—- まず、当館で個展を開催した、率直なご感想をお聞かせ願えますか。

馬場 やっぱり、福沢一郎さんのアトリエであった空間だということが頭にすごくあったので…歴史的な面影みたいなものに対する感動がありました。それから、今まで展示してきたような、いわゆるギャラリーとは違う空間で、どんなふうに見えるんだろうと、正直ちょっと怖いなという感覚もあったんですが…高いですし階段もあって…そもそもあの木の壁がとても美しいので、何かそこ私の絵があって大丈夫かなと思っていたくらいで。すごく光が綺麗な場所ですよね。しかもこの一番大きい壁に、私の作品一点だけを飾れるっていう…。設置してみると意外にも作品が落ち着いて見えてくる感じがして、新しい発見でした。

—- ここはもともと画家のアトリエとして建てられたところなので、天井高や採光などは、他のギャラリーとはかなり違うと思います。私は、この木の壁と馬場さんが描いた作品との、いいコントラストが出たんじゃないかしらと思っています。壁の木材は生きている木としての役割は終えていますけど、植物のさまざまな様態を描いている馬場さんの作品をこの壁の中心にどん!と据えたとき、何か象徴的なものを感じたのですが

馬場 やはり、元々は展示のための場所ではなく、アトリエという用途の場所、生活の場所だったということから、新鮮な感覚を抱いたのかも知れないですね。それと、これまで私は木材を、例えばフレームに使うことなどは、むしろ避けていたんです。木としての素材がわかりやすいものとかは…なんというか、自然物を描いているからこそ、絵と馴染みすぎて、自然のイメージが私(の感覚)とずれていくのかなと思って、今まで使ってこなかったんですよ。

—- そうなんですか。じゃあ、今まではフレームも木ではなく主に金属のものを…。

馬場 そうなんです。なので、今回どんなふうに見えるんだろうと思っていたんですけれど、予想に反して、壁も美しいままだし、よく見えるような感じがして…この部屋自体が他では体験できない雰囲気をもっていて、その雰囲気の中にある、実際に使われていたという現場感が、なんだかとても特別なものに感じました。

—- 今回、小品は白っぽい木のフレームを使っていらっしゃいますよね。私はこのフレームと作品が、自然と馴染んでいると感じていました。あれが金属でも悪いことはないんですけれど…むしろ今回はフィットしたんじゃないかしらと。

馬場 今回この場所での展示ということで、少し木目のわかるようなものが作品と空間に合うかなと思って、木材のフレームを選びました。

—- とても作品が映える造りになっていると思います。そういえば、この小品(図1)はとても人気がありましたね。

馬場 そうですね。この場所(階段下の幅の狭い壁)にちょうど絵のかたちとサイズがぴったり合ったなと私も思っていました。これまで自分の絵が、例えば家やカフェの壁のような生活空間に近いところに飾ってあるのを、実際に見たことがなかったので…ここにこの作品が飾られたことで、そんなシーンをすごく想像できました。

—- 確かに、作品を買い求めた人の自宅を観に行くようなことは滅多にないですよね。

馬場 はい。私は自分の絵を自宅に飾らないので…他の方の絵は飾ることがあるんですが、壁もそんなに無いので自分の作品はだいたい梱包してしまっています。それこそ描きかけの絵があるだけでもう、部屋がいっぱいいっぱいで(笑)。今回は、そんな想像をふくらませることができました。

—- 作家の心情としては、自分の作品は、やっぱり外にお見せするもの、みたいな感覚があるのでしょうか。

馬場 いえ、やっぱりスペースの問題が大きいですね。いつか自宅の玄関とかソファーの上にバーンと絵を飾りたいんですけど(笑)。

図1 《afterglow》2023年
展示風景

「はざま」の植物を描く

—- 制作についておうかがいします。植物の生死のはざまというか、いろいろな様態を一つの画面の中に同居させるような作品を描き始めたきっかけは、どんなものだったのでしょうか。

馬場 最初のきっかけは、近所にビニールハウスでシクラメンを育てて売ってらっしゃる農家さん、園芸店がありまして、幼いころからよく訪れてたんですけれども、ビニールハウスの奥のほうに、商品にならなくなったシクラメンを全部引っこ抜いて、土に埋めて肥料にしていくために、まとめて山みたいに積んでいるところがあったんです。
 シクラメンって茎が赤だったり、ピンクだったり鮮やかなので、それが絡むように積まれた山を見て、なんて綺麗なんだろうって思って、単純に興味を引かれたんですけど、でもこれってよく考えたらもう抜かれちゃって、埋めて、土に還すために置かれてるもので、農家さんにとってはもう(売ったり、鑑賞したりという役目においては)いらないものなんだよなって思ったときに、誰かの捨てたものだけれど、まだまだ生きてるように見えたり…美しいなって。死んでいるとは思えないような色があるっていう。生と死が混在している、一つの中に同時にあるということが、枯れているという定義とか、いらないものとか死んでるものに対して…自分もそれを見るまでは、廃棄されているものだったら、そのようにそのまま受け止めて見ていたんですけど、その感覚とか、見方がそのときに自分の中で変わったような気がしています。
 でもそれは、綺麗だから捨てないでとかいうわけでも、誰かを否定したり、誰かにそういうことを強く訴えたいっていうわけでもないんですけど、当然ですが自己と他者の間には感覚のずれがあるなと気づいたというか、自分自身もそれを見るまでと見てからで、ものの見方が変わったなっていう体験でした。その後、そういう状態の植物にすごく興味が湧いてきて、近所の畑で、間引かれていらなくなった野菜や、育ちすぎて商品にならないないような野菜がゴミ集積場所とかにあるので、そういったところを覗いてみたり、そんなことを日常的にするようになっていきました

—- その、シクラメン農家さんの廃棄される積まれたお花を初めて見たのは、いつ頃のことですか?

馬場 大学2年生の終わりか3年生ぐらいだと思いますね。その後は1年間ぐらい、あのとき畑で見た(山のように積まれた)シクラメンを描いていました。
 その後も、1年間に書く枚数が少ないこともあって…そのテーマに対する答えが出るとか、完結するとかいうことがなくて、学生時代からずっとそのテーマで描いています。

—- 描く対象は少しずつ違っているかもしれませんが、視点はほぼ変わらずに、そういったものたちに向けられているわけですよね。そういったものたちに対して、美しいという感情が起こったというところが面白い。多くの方はそういう感情を、捨てられている状態を認識した時点で、持たないんじゃないかと思うんですよ。でも馬場さんは、打ち捨てられているものにも、色の鮮やかさや、まだちょっと命を感じるような葉っぱのハリとか…そういう美しさを発見したことじたいが、とても大きいなと。

馬場 でも私もそれまでは、例えばキャベツの外側をむいてポイッて捨てたものを観察したりはしてこなかったんですけど…。きっかけになったものは何か…あのシクラメンの山を見たことがきっかけになりましたね。シクラメンの茎ってけっこう太いですよね。植物なんですけど、あの独特な質感というか、主張が強くて。

—- そういえば、シクラメンって、クリスマス近くになるとスーパーとかにも鉢で並んでいますよね。

馬場 そうですね、冬って、(景色の中で)色は結構抑えめになるじゃないですか。そこ(シクラメンの廃棄されていた場所)は畑ですから、地面はもう茶色一面で、周りの木は色が収まって、そこだけがすごく赤くて、そういう印象の強さから、何か惹かれるものがあったのかもしれないですね。

—- 突然そこに色が出現している。なるほど。そんなことがきっかけで、畑とかお花屋さんとかの脇にある廃棄されてしまったようなものに対して興味を持って、モチーフとして描くようになったと。それらを写真に収めて、その画像をほぼそのまま描くっておっしゃっていましたよね。

馬場 はい。もちろん自分で構成する部分はあるんですけど、写真に収めることも私にとっては重要で、抜かれてしまった植物の状態ってどんどん変わってしまって、次の日にはぜんぜん違うものになってしまうので、その状態を残すという意味もあります。それをそのまま描くというのは…私は下描きを結構しっかりするんですけど、そのまま描くという意識でいた方が、私の感情的な部分や、そのときのテンションや感情の揺らぎみたいなものが作品に移らないと思っていて、何かそういった感情的なものとかはそぎ落とされた方が、(作品を)見る方にとってフラットになるというか、私としての思い入れとか考え方みたいなものを押し付けずに…押し付けるっていう言い方はちょっと強いですけど…何て言ったらいいのかな…あんまり私の目線に寄りすぎないように、というか…。

—- 作家自身の主張とか、感覚とか、感情とかいう極めてパーソナルなものからモチーフを、一旦遠ざけるという意味があるわけですよね。下描きをしっかりして、できるだけそのイメージをそのまま写し取るように描いていくと。もちろん、そこには感情や感覚は必ず乗る。とはいえ、寄ってくるものを押し戻しながら…そのせめぎ合いみたいな…。

馬場 そうですね。

—- そのせめぎ合いって結構、ときには力技みたいなことになるような気もするんですけど…例えば、全体をまとめるというよりは、面相筆で部分部分をがっちり完成させながら描いていくという制作スタイルも、モチーフに対する感情のようなものを引き離すための力技のようにも感じるのですが、そのへんはいかがですか。

馬場 そうですね。部分ごとに一つずつ描き進める方法を取ることで、絵の中で花も根も茎もどこが主役・脇役という差をなくし、画面のすべてが同じぐらいのフラットなものにしたかったんです。 これは、感情的なものを削ぎ落としつつ、画面の全てを均質に描く/扱うという行為からも、生と死を同等に扱うというテーマに近づけるかもしれないという思いも、そんな描き方をしている理由の一つです。

—- そうすることによって…繰り返しになりますけど、やは画面に対して一歩下がって、という心持ちがより強くなると。

馬場 私の目線について理解してほしいというよりも、私の感情らしきものをなくして、フラットな状態のものにすることで、その…(こういう作品を描く)きっかけになった…シクラメンを見たときのような感覚を、(作品を見た)人と共有したい、みたいなことなのかもしれないんですよね。

—- そのときの驚きというか…え、こんなことなの?みたいな発見を、見る方にしていただきたいと。

馬場 はい。ですから、見ていただいた方の感覚で捉えていただくのが一番いいというか…こう感じてください、じゃないんですよね。

—- 最近、自分の情感とか感覚みたいなものを溢れ出させるような絵画が、あまりみられないような…例えば福沢一郎が生きた昭和の初めから中ごろの絵画のあり方に比べて、ものすごく(感情の)トーンが抑えられているような気がするんですね。例えば麻生三郎さんのように、ああいう激しい、自分のささくれだった心の内側をガーッと剥いて、どうだ!って見せるような、そういう絵画はとても魅力的だと思うのですけれど、これだけ視覚体験の場や機会が多様化して、なおかつ、視覚メディアの受容が手軽になってきたということが、もっと客観視しようとか、もっと多様な見方を、描き手もみなさんと共有したい、そういう気分のある方が多いような気がします。そう考えると、馬場さんの絵画はある意味とても現代的な、絵画のありようなのかしらと思いました。

馬場 そうかもしれないですね。自分の内面を深く煮立てて世界に突きつけるというより、一つのものに向きあう体験を一緒にしたいとか、感覚や違和感を共有してみたいとか。そんな感覚があります。


図2 《transformation》2022年 撮影:秋葉雅士

出品作から…《transformation》

—- こちら(図2)は今回の展示作品の中では一番大きな、《transformation》ですね。これは2022年の作品ですか。(多摩美術大学油画研究室の)助手としてお仕事なさっているときの作品とうかがっています

馬場 はい、これは勤めていた多摩美術大学での「助手展」に出すために描いた作品ですね。助手展の会場はとても広くて、やっぱり助手をしている間に大きい作品を…助手が終わったらもう(ここまで大きなものは)描けるかどうかわからないと思っていたので…大きな絵を描こう、という気持ちで描きました。

—- ちなみに今まで一番大きな作品は…。

馬場 卒業制作のときの200号ですね。あのときはもう、こんな大きなのをかけるのは最後だな、くらいの気持ちでしたね。卒業制作への思い入れてが強くて、絶対に大きいのを描こう、みたいな気持ちがありました。

—- そのときと今で、何か変化が生まれているのだとすれば、どんなところですか。

馬場 そうですね、今の描き方、植物を画面の全面に描くというのは、だんだんとこうなってきたという感覚はあります。最初はもっと背景がありましたし。もちろん、今も画面の奥のほうが暗くなっているような描き方をすることはあるんですけど。こういう見せ方をしたい、というポイントは違ってきているように思います。最初の頃は、画面の中央に見せたい部分があって、周囲に背景の土が描かれていて、みたいな構成をしていたと思います。それが何か、だんだんと全体的に…例えば(画面の)奥の部分の植物と中央とであんまり描く感覚が変わらないような…そういう描き方に、少しずつなっていったような気がします。
 画面の端からだんだんと描き進めるという方法は、このテーマに合わせて始めました。最初は単純にその描き方が、性に合っている気がして始めたっていうのが正直なところです。あまり器用じゃないので…。
 例えば、はじめに下地を置いて、だんだん(モチーフを)具体的に浮き上がらせるように描くという方法は、絵がどうなるかが、もう自分では全く想像できなくて…。ここはこう描く、ここはこう、と、一筆ずつ自分で納得して進めるには、その「部分描き」が必要だったと思います。

—- 大学1・2年生の頃などは、もうちょっと違う制作手法でしたか?

馬場 そうですね。全然違いましたね。色々なことを試していました。1・2年生の間は課題があるので…課題に対しての答え方は、多摩美は本当に自由なんですけど…。
 …そうだ、先ほどお話ししたシクラメンのエピソード…そのきっかけが、2年生の課題、ペア制作の課題で…。

—- ペア制作?

馬場 同じクラスの学生とくじ引きでペアを組んで、互いに一つずつ言葉を出し合って…その二つの言葉をテーマに作品を作りなさい。という課題があったんですね。多分2年生の一番最後の課題だったと思うんですけど…それで、確か始まりと終わりみたいな言葉が、お互いに出たんですよね。アルファとオメガみたいな…。その「オメガ」という言葉から、私は、最後の地点にあるもの、ということを考えていたんですが、課題をどうしよう…といろんなところを歩いて…フィールドワークというか、歩いて何かを見つけたいと思っていたんです

—- なるほど。

馬場 ずいぶん遠くへ行ったりもしたんですけど、自分の家の近くの園芸店に行って、例のシクラメンを見て…さっきお話ししたような、感覚が変わるようなものに出会って、始まりと終わり…終わりというか、植物がまだ生きていることと、枯れていることが、同時にこの一つの中にあるということを思って、その状態を描こうと思ったような気がします。たぶん…。あまりはっきり憶えていないんですが(笑)。


展示風景

出品作から…新作を中心に

—- では、新作を一緒に見てまいりましょう。《Midpoint》(図3)は、さっきおっしゃったように、背景…とはいえないかもしれませんが、暗い部分が上下にあって、画面中央には太い茎が右から左へ張り出して描かれていて、面白いなと思ったのは、2022年の大きな作品もそうなんですけど、影を、陰影として描くということを、あまりなさらないじゃないですか。例えば、画面のどちら側から光が当たっているかな、ということを想像すると、太い茎のあたりはもっと、部分的に濃い影ができて暗くなるとか、そういうことが起こるじゃないですか。でもそうではなくて、やはり植物の一つ一つに集中して描いているということが、陰影をあんまり感じさせない描き方に繋がるのかな。と思っていたんです。
 陰影を感じさせないことで、いわゆる立体感とか奥行き感みたいなものが、限りなく排除されてるように思います。

図3 《Midpoint》2024年

馬場 そうですね。結構フラットに描いてますね。

—- そこがハイパーリアリズムみたいな方向とはちょっと違う。そこは馬場さんの制作のユニークなポイントなんだろうなと、私などは勝手に解釈してるんです。多分そのリアルというもの…馬場さんからも、リアルっていう言葉はあまり出てこないんですよ。

馬場 私の感情や存在感を削ぎ落として…というお話をしたんですが、ただそれを真実の、本当にそのときの写実的な空間で描くことよりも…やっぱりそこには私のイメージがあるのかもしれません。

—- 多分、翻案・翻訳されてる部分がやっぱりあるんだとは思うんですけれども、それが結果的に、見る人にとってはいろんな解釈を生む画面作りになっている。例えば、これはアブラナだとか、キャベツのトウが立ったやつがポイって捨てられてる状態だっていうことが、それこそリアルに判別できるようになると、(見る人の)感じ方はまた変わりますよね。

馬場 そうですね。

—- だから視覚(感覚)と思考の間を、ちょっと離してあげるという作用が、多分馬場さんの翻案・翻訳の過程の中にあるように思うんです。

馬場 多分、色の方が私にとってはリアルな整合性よりも重要で、(植物が)枯れていること(状態)も含めて、やっぱり色の鮮やかさが、私の中では、その植物に対して抱いている存在感のイメージだと思います。それを描いていくと、結果的にそういう状態になっているのかなと思いますね。あとは場合によっては光の差し方や陰影も意図的にエモーショナルなものに繋がるので削ぎ落としているということも一つあるように思います。

—- なるほど。色を中心に、馬場さんの制作思考のようなものが巡っているのだとすれば、陰影という(色とは)別の要素で画面をカバーしてしまうようなことは、意識するとしないとに関わらず、避けられているという感じはしますよね。馬場さんが植物のさまざまな様態から受け取った、美しいと思える色を置いていく。それが結果的にこのような画面づくりになっている。

馬場 そうですね。

—- お話聞いていて、制作のスタンスは一貫しているのだなと感じますが、例えばこれは最近作の一つ(図4)ですが、これまでの作品と少し違うように思うのです。多分生えている状態をそのまま描いていらっしゃる。

図4 《beginning》2024年

馬場 そうですね。これは捨てられている植物ではなくて、街路樹だったと思うんですけど、この絵を描いたときは、葉先が少しずつ、こういった形で枯れてくる…まだ生えているけれど枯れてきているっていう部分に着目したのと、あとは前から感じていることなんですけれど、こういう、モノがたくさん重なった状態っていうのが、私惹かれる部分があって…いろいろなものが積もっていって、塊のようなものが出来たときに、見えていないけれど、確実にこの奥に何かがある、でもそれを触ることはできない、みたいな状態が。

—- ああ、なるほど。

馬場 この密集している様子に惹かれたことと、この葉先の色が少しずつ変わっていって、細くなっていって…一枚一枚のうねりや色の変化を見ていました。

—- この葉は斑点ができて、おそらく細菌か何かに感染しているみたいな状態ですよね。そういう、生死がはっきり分かれていなくても、生きている状態の中でも差異が生まれている、というところの発見なんですかね。

馬場 そうですね。これはもう生きていると言っていい状態だと思うんですけど、やっぱりその…ただ綺麗に生があるだけじゃなくて、常に変化している。変化が中に含まれている、みたいなことかなと思います。

—- 戸谷成雄さんという彫刻家の方がいらっしゃるんですけど、面白いことをおっしゃっていて、彫刻…塑像は、心棒に粘土をくっつけて作りますよね。だから、形には芯が通っている。芯から肉付けすることで形態の軸を作る。それが彫刻(塑像)だというふうに多分学校では習うと思うんですけど、戸谷さんはそういう彫刻のありようから逆転するんですよね。要するに表面なんだと。例えば、森を見ると、我々は森を見ているんじゃなくて森の表面を見ている。木々がたくさん集まって、枝葉が重なって何となく塊として見える。だからその中に何があるかわからないけれどもその表面、膜のようなものを見て我々は森だと判断する。この森になぞらえて彫刻を追求するとどうなるか、ということを考えて、角材をチェーンソーで刻んでいく。でこぼこの木の集合体で構成される「森」というテーマの作品群に、戸谷さんは行き当たるんですね。表面の様態を捉えて、そこからあるかどうかわからない内側に迫ろうとする。
 いま馬場さんの、分け入れない内側を探ることに興味があって、そのためにフラットな表現を心がけている、ということばを伺って、何となく戸谷さんの彫刻のありようとちょっと重なるところがあるなあ、と思いました。決して迫ることのできない命みたいなもの…ことばとして適当かどうかわかりませんが…そういう得体の知れないものに、ある膜のようなものを通して感じようとする。届かない。だったらその膜を、そのまま膜として、変にリアルみたいなこと言わないで表面として捉える、みたいなところが、ちょっと通ずる感じがしました。

馬場 森や山に行くと、山道やその付近じゃなくて、もっと見上げた遠くの先に鳥だけが飛んでる岩の切り立ったところとか、完全に人が入ってないところってあるじゃないですか。手入れもできない木だけがあって、みたいなところ。そういう、一度も人が立ち行ってないんだな、どんなふうになってるんだろうとか、あの形になるまでにはどんなことがあったのかとか想像することがあります。そういう…よくわからないけど、触れられないけど、そこにある状態っていうのはすごく魅力を感じていて、想像しますね。

—- 無理に分け入ってはいかないけれど、何かこう、じわっと来るものがあるってことですよね。そういう得体の知れない状況を捉える感覚が、つとめて具体的なものを描いているにも関わらず、いろいろな人にいろいろなことを思い起こさせる、そういうものに繋がっていくんでしょうかね。


展示風景

出品作から…小品のことなど

—- 今回小さなものも何点か出していただいて…これ面白いですよね(図5) コート紙に描かれた作品ですね。画面に二つのイメージを同居させている。これは色がとても綺麗ですよね。実際にこういう鮮やかな赤いキャベツがあったりするんですか。

図5 《Let Life Flow》2022年

馬場 ありがとうございます。実物は多分ここまで赤みを帯びていたわけではないと思うんですけど…葉物野菜の植物って傷んでくると黄色っぽくなってくるじゃないですか。褐色というか。その褐色がこの絵にはこういった色になって出てきたっていう感じですね。

—- 紫、赤、そして緑。補色の対比も生まれてとても綺麗な画面ですよね。これを油絵で描くとどうなるか。私などはとても気になるんですけれど…。いかがですか、二画面が同居する絵。

馬場 この作品が二画面同居になったのは、実はたまたまで、この構図がおもしろいと思ってやったわけではなかったんですけど、描いてみて、真ん中で切り離して別々に展示するよりは、1枚のままの方が面白いなって思ったので…。今後油彩の作品でもやってみたいですね。

—- 何か面白いことが起こりそうな気がしますよね。あとはこの小品(図1)のようにキャンバスの端っこをそのまま活かした作品が今回2点ありますね。あの、切り落とした布のケバケバを出してみたというのは、何か意図があったのですか。

馬場 このキャンバスは、元々この長さで余っていた切れ端を、何かに使いたいなと思って…ただこの大きさのキャンバスだと、綺麗に貼れる木枠サイズはもうなくて、切れ端よりもちょっとはみ出ちゃうような感じでサイズの合っていない木枠に貼って描いたんです。普段は私、けっこうキャンバスを木枠の裏までくるむように張って描くんですけど…。この絵を描いたときは、この切れ端のケバケバ部分がずっと見えていた状態で描いていたので、ケバケバありきで絵を描いていたのかな、と思って最後まで残しました。

—- なるほど。端っこがある状態から画面として成立していった、というような感じでしょうか。

馬場 この(キャンバスという)素材も、遡っていけば植物じゃないですか。ですから、これはこれで切り落とさずに…。これ(図6)などは何となくケバケバが草むらみたいにも見えてきて…。

図6 《midpoint》2024年

—- 確かに!

馬場 なので、これはもう切り取らずに、同居させようと思ったんです。もちろん、周りを綺麗にカットして、板などに貼るっていうことも出来たんですけれど…この絵はこの切れ端の状態だったから描けたものかな、と思ったんですね。なので、(端も含めて)全体が見えるように額装しました。

—- ところで、植物じたいには、子供のころから興味を持っていらしたのですか。

馬場 はい、たぶん子供の頃から興味はあったのかもしれないですねや。野菜が特に好きだとかそういうことではないんですけど、緑の畑とか…実家でも母が花が好きで、祖父母の家も庭がきれいで草花の多い家だったので、当たり前にそういう植物が身近にある状況で育ったと思います。特に祖父母の家には祖父の趣味で昔温室も置いていて、シクラメンや蘭などの花を育てている温室に入るのが大好きでした。
祖父にとっては退職後の趣味だったんですが、とても愛情深く庭をいじってる人でした。不思議なもので、祖父が亡くなったあとは、その頃はもう温室は撤去していて、ただ草花を植えている庭にだったんですけど、おじいちゃんが大事にしてたお庭だからと祖母が頑張って植物の世話をしていても「やっぱりおじいちゃんがいなくなってから全然花が咲かなくなっちゃった。」と祖母が言っていて、不思議だなあ、と…。植物と人の関係に興味を持つ言葉でしたね。

—- 植物って不思議ですね。


展示風景

出品作から…アクリル画

—- 今回は、アクリル絵具で描いた作品も展示してくださいました(図7-9)。

中村 はい、こういう作品を展示に出すのは今回が初めてですね。個人的に描いたものを人に差し上げたりとかはあったんですけど、展示する作品として描いて、出したのは初めてでした。

図7-9 上から《phenomenon No.3》、《phenomenon No.1》、《phenomenon No.2》2024年

—- 今回アクリル絵具で描いた作品を展示してみて、手応えというか、感じたこととか考えたことなど、ありますでしょうか。

馬場 なんというか、今までよりも気軽さを失って(笑)緊張感は少しあったんですけど…油彩と違う表情や色が出ますから。今回はこの(画面)サイズに対して、こういうちょっと大きめの(イメージの)トリミング、構図を作ったのも、自分にとって…さっきお話しした「密集」とはまたちょっと違うんですけど、抽象的な見え方をする絵作りは、油彩の方にも活きてくる仕事になったかなと思っています。またアクリル絵具で描く作品も、アクリルならではの発色とか、紙の表情とか、にじみの楽しさなどに今触れているところなので、これ自体も続けていきたいなと思いました。

—- 収穫があった、ということですね。

馬場 そうですね。描いているときの感覚も全然違うので…描き方じたいは結構似たようなものなんですけど、感覚というか、やはり紙の一発でやらねばならぬ!感覚が、油彩のときとは違う緊張感で、この独特の感触はすごく楽しかったですね。

—- なるほど。サイズやトリミング、視点の変化など含めて、紙のものとキャンバスのものと、相互に行き来するような、そんなことが生まれると、面白そうですね。

馬場 はい、ちょうど今取り組んでいる油彩画は、結構植物を大きく入れていたりしていて、仕事が行き来している部分があると思います。さっきお話ししたような密集感のある絵も、また違った構図(の作品)があることによって生きてくるかな、とも思うんです。同時に展示できるといいのかな、と。今回も、この作品(アクリル画)作品と、《beginning》のような細かく描いた作品とが隣同士にあったのもあって、違う構図の作品どうしが活きたもかもしれないなと思いました。こうやって植物を大きく(画面に)入れるのは、ちょっと勇気が要ったんですけれど、これはこれで今までとちょっと違うものになって、すごく良かったですね(図10)。

図10 展示風景 左から《phenomenon No.3》、《phenomenon No.1》、《phenomenon No.2》、《beginning》

展望(野望)

—- 最後にお尋ねしたいのは、制作の手法やスタイルは大きく変わることがないかもしれませんが、何か今後、こういうことをやってみたいとか、試してみたいとかそういうもの・ことがもしあったら、教えていただけるとうれしいです。

馬場 思っていることだけなら本当にいろいろあるんですけど…立体物に何かこう(作品のイメージを定着)することってできるのかなって考えることはあったりします。でもうまくいかないんですよ(笑)。私は筆が遅いので、常にいっぱいいっぱいなのもあって、なかなかいろいろなこと、展開に手が伸びないんですけど、想像だけはすることがよくあって…野望としては、橋とか船とかが作ってみたいです。

—- おお、橋と船!

馬場 川って、ある地点と地点の間を流れるもので、そしてその川自体も、なんというか、死生観を感じさせるものだと思うんです。最近川について考えることが多くて、ただそのときに、それ(土地)を分断する川そのものというよりは、それにかかる橋や、渡る船っていう、移動したり行き来できるものに、いつか作品を転換したい気持ちがあって…。

—- ラッピング渡し舟とか!

馬場 そうですね。船もいろいろお話というか、言い伝えがあるじゃないですか。三途の川を渡るときに行いがいいと船がもらえるとか、行いが悪いと急流のところを丸腰で渡ることになるとか…そんな想像から、いつか1回ぐらい自分で船が作りたいなと。

—- 面白いですね!

馬場 あとは布とか…布に自分の絵があって(プリントされて)、その布が何かの形になったり、布として掛けたときどんなふうになるのか、見てみたい気持ちがあります。

—- 布と言えばやはり、アートプロジェクト高崎で出品していらっしゃる、ターポリンに印刷してビルの一面を覆うようなもの(図11)とか、そういうのも作品の展開のひとつですものね。

馬場 そうですね。作品が巨大になって日常の空間に立ち現れるのが独特で面白いので、機会があればぜひ続けていきたいと思っています。


図11 アートプロジェクト高崎での展示風景(群馬県高崎市、2024年)

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インタビュー中の話題にもあるとおり、馬場はあれだけ緻密かつ克明に、植物のさまざまな様態を描き出しているにもかかわらず、「リアル」ということばで自作を語ることがほとんどない。そして「リアルに描く」という意識は全くないとも言ってのける。二律背反するようなこの画家の思考と制作は、つとめて現代的な絵画のありようの一端を示していると、私などは考えている。
馬場の制作は、きわめて個人的な体験と、それをめぐる感覚と思考によって生み出され、今日まで積み重ねられてきた。そこには、死と生のはざまで揺れ動く存在への興味と共感、そしてどっちつかずの不安定な状況を「美しい」と見定める、ある種の思想が通底している。
無造作に積み上げられ、枯れたり腐ったりしてゆく植物の断片の集積や、細菌に感染してところどころ葉が変色している街路樹を描出するとき、馬場の制作は色彩をめぐって構想され、厳密な下描きを施したあと、各部分を面相筆で緻密に仕上げながら進行する。造形的にも感情的にも、画家いわく「つねにフラットに」と意識しながら描くことで、陰影や量塊よりモティーフの色彩が際立ち、結果として既視感と幻想が交錯する不可思議な画面が立ち上がる。そのありようは、決して深刻なものではなく、ただ植物がそこに在る/在ったということを示そうとしているにすぎない。しかし画家の態度を反映したそのありようが、じつに多くの人びとの感覚を刺激し、そこに分け入っていこうという強い興味をそそるのだ。
デジタルとネットワーク、そしてAIの技術がいつのまにか途方もない発達をとげ、膨大かつ雑多な情報にいやおうなく晒されているわたしたちは、ときに、自分にとって何がリアルで、何がそうでないかを峻別することを強いられる。この峻別は、実際はきわめて個人的な見解や解釈、感情によっておこなわれるのだが、人びとはそこに何らかの根拠を求めてしまう。殊に視覚情報は、得体のしれないいくつかのメインストリームが社会のなかでのたうっていて、人びとはそこに峻別の根拠、いわば視覚的な「安息の地」を見出すことが多いのではないか。
馬場はそれらのメインストリームに依ることなく、ある確信をもって制作を続けている。自らの描出するもの・ことが、どっちつかずの世界を現出するものであると見定めて、その「折り目」に立ち、不確かな道筋へと果敢に挑戦する態度、そしてそこから生み出される造形が、多くの共感を呼ぶのだろう。そしてこの態度は、このあやうい現代社会を生き抜こうと真摯な挑戦をつづける美術家たちに、多かれすくなかれ意識されているものなのではないか。私などはそんな妄想を繰り広げてみる。
画家のゆく先にあらわれる「折り目」がどんなものであるか…険しい山脈か、なだらかな丘陵か、それとも彼方と此方の際(きわ)であるのか…私の貧しい妄想力では判然としない。しかし画家のあゆみがゆっくりと、着実に、その「折り目」をすすんで、これからも私たちに未知の世界を届けてくれることだけは、間違いないだろう。

伊藤佳之

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【展覧会】モノクロームの福沢一郎 カラリストは「黒い幻想」にむかった  5/8 – 6/7


このたび、福沢一郎記念館(世田谷)では、展覧会「モノクロームの福沢一郎 カラリストは「黒い幻想」にむかった」を開催いたします。

 福沢一郎の描く絵画作品は、鮮やかな色彩が大きな特徴といえます。彼が画家として本格的に活動し始めた頃から、その色彩はつねに注目されてきました。1950年代の「中南米シリーズ」や、1965年のニューヨーク滞在時の作品、そして1970年以降の神話や聖書の物語を描いた作品群には、カラリスト(色彩画家)としての福沢の個性があふれています。
 しかし、彼がただ一度だけ、モノクロームの世界を探求したことがありました。
 1959年から62年にかけてあらわれる「黒い幻想」シリーズや「白亜紀の幻想」シリーズがその探究の成果といえます。
 ただ、この時期に鮮やかな色彩で描かれた作品がないわけではなく、むしろ色鮮やかな作品と、モノクロームの作品が、同時並行で制作されていたのです。
 彼はなぜ、モノクロームの絵画表現を追求したのでしょうか? また、このひとときの模索は、その後の彼の制作にどのような影響を及ぼしているのでしょう?
 本展覧会は、こうした謎を読み解き、これまであまり光の当たらなかった彼の制作を改めて検証する試みです。「黒い幻想」と「白亜紀の幻想」シリーズの作品を展示するほか、こうした制作に挑む前年、ヨーロッパを旅行した際に彼が撮影した街角の壁ばかりを撮影した写真や、「デコラ板」とよばれるメラミン化粧板を使った珍しい作品、そして未発表のものを含む資料類を紹介し、さまざまな角度から「モノクロームの福沢一郎」に迫ります。この機会にぜひご覧ください。


《白亜紀の幻想》 1962年

《雪男》 1959年

ヨーロッパ旅行の際に撮影された壁の写真 1958年

会 期:2025年5月8日(木)― 6月7日(土)の
    木・金・土曜日 13:00 -17:00(入館は16:30まで)
観覧料:300円


【展覧会】PROJECT dnF+ vol.3 「つくるこども展vi 成城学園初等学校美術教員による展覧会」2025/3/6-23

福沢一郎記念館では、2014年から継続している「福沢一郎賞」歴代受賞者の方々のための企画「PROJECT dnF」を拡張する試みとして、昨年から「PROJECT dnF+」をはじめました。 これは、福沢一郎にゆかりのある方、福沢の制作とひびきあう独自の試みをおこなっている方など、当館で意義ある展覧会を開催してくださる方に、当館を展覧会場としてご提供するものです。
今回は、福沢一郎とその家族にゆかりのある成城学園初等学校の、美術教員4人による展覧会をおこないます。

福沢一郎の妻一枝は、成城学園で英語の教師をつとめていました。その縁で長男一也は幼稚園から高校まで成城学園に通っていました。現在も、福沢家と学園の縁は続いています。
成城学園初等学校の美術教育は、「図工」のひとくくりではなく、絵、彫塑、工芸の3分野を独立した教科としておこなっているところに大きな特色があります。専門性の高い教員が各教科を担当し、それぞれの表現から得られる感受性や、子供たちの興味・関心を伸ばしていくことを目指しているといいます。
今回の展覧会は、この3分野を担当する4人の教員によるグループ展で、2年ぶりの開催となります。日々子供たちと向き合いながら、各々が取り組んできた造形表現の豊かさを、堪能していただければ幸いです。 この機会にぜひご覧ください。

 

◎展覧会 会期: 2025年36日(木)-23日(日)
◎休館日:月・火・水曜日
◎開館時間 14:00 – 19:0023日は16:00まで)
◎観覧無料



秋山朋也

 


粟津謙吾《記憶2025-2》2025年 木材 40×40×4cm

 


シオノマサキ《line-時のかたち-》2024年 麻、木材、アクリル絵の具、接着剤 90✕20✕08 cm

 


橋本正裕《きみ と ぼく との ディスタンス》2025 立体、石粉粘土・いす・ウレタン・段ボール・鉛 W300×D300×H950mm

 

◎作家略歴

秋山朋也 AKIYAMA Tomoya

1978 福島県浜通り生まれ
2002 多摩美術大学油画科卒業
2005 成城学園初等学校 着任

グループ展
2015 「たまたま展」 大森 パロスギャラリー
2021 「タマタマ展」 大森 パロスギャラリー
2016~2019 つくるこども展 成城さくらさくギャラリー/東京
2022 アート6人展 和 ギャラリー絵夢/東京
2023 つくるこども展 福沢一郎記念館

受賞歴
2002年 第56回福島県総合美術展覧会 
福島県美術賞 受賞「流木」

粟津 謙吾 Awazu Kengo

1979 フィリピンに生まれる
2002 大阪芸術大学大学院 芸術制作研究科 修了
2010-2017 桐蔭学園小学部にて勤務
2018 成城学園初等学校 着任
   
個展
2006 個展 番画廊/大阪
2007 個展/森から杜へ 番画廊/大阪

グループ展 その他
2004 石のアートフェスティバル 福島県須賀川市
2005 BEYOND THE BORDER 茶屋町画廊/大阪
2006 thing matter time2006 信濃橋画廊/大阪
2007 浪速アラモード ギャラリーES/東京
2008 宮ノ前24展 MSギャラリー/和歌山
       GEISAI 11 東京ビッグサイト/東京
2013~2018 造組展 澁谷画廊/東京
2018~2019 つくるこども展 成城さくらさくギャラリー/東京
2022 アート6人展 和 ギャラリー絵夢/東京 
2023 つくるこども展 福沢一郎記念館
その他グループ展多数

シオノマサキ(塩野雅樹)SHIONO Masaki

1952 東京都青梅市生まれ
1975 多摩美術大学絵画科卒

個展
1976、1978,1980、1982、1984,1986,1989,1991,1993,みゆき画廊
1995 銀座Gアートギャラリー
1995 GALERIARASEN国立
1997 銀座Gアートギャラリー
2000 GALERIARASEN国立
2001 GALERIARASEN国立
2009 KCCギャラリー
2023 西武池袋本店
2024 西武池袋本店

グループ展
1975 椿近代画廊
1980 コラージュ展 大阪プチフォルム画廊 
1985 気配展 新宿文化センター
1993 気配展 銀座清月堂ギャラリー 
1996 ラセン展 GARERIARASEN国立
    紙の作家展 GALERIARASEN国立
    三人展 ギャラリー銀座アレー
1997 ミューズ新春美術展 所沢文化センター 
    97展 GALERIARASEN国立
    あれから52年展 ボッパルトホール青梅 
1998 GALERIARASEN SERECT98 
    多摩平和いのち展 ボッパルトホール青梅
1999 GALERIARASEN SERECT’99 
    多摩平和いのち展 ボッパルトホール青梅
2000 GALERIARASEN SERECT2000 
    多摩平和いのち展 ボッパルトホール青梅
    今日的日本の紙木土展 オーストラリア Cairns Regional Gallery
2001 ALERIARASEN SERECT2001 
2008 記憶展 さくらギャラリー
    チャリティーグリーティングカード展 みゆき画廊 
2015 たまたま展 PAROS GALLERY大森 
2016 みゆき画廊50周年記念展 
    カレンダー展 銀座うしお画廊 
    つくるこども展 成城さくらさくギャラリー 
2017 つくるこども展 成城さくらさくギャラリー 
    カレンダー展 銀座うしお画廊 
2018 つくるこども展 成城さくらさくギャラリー 
    カレンダー展 銀座うしお画廊 
2019-2022 あなたのためのカレンダー展 銀座うしお画廊
2022 アート6人展 和 ギャラリー絵夢新宿
2023 つくるこども展 福沢一郎記念館
2024 PLAY GROUND GYOH ART EXHIBITION アート喫茶フライ中目黒

橋本正裕 HANSHIMOTO Masahiro

1986 東京都墨田区向島生まれ
2005 東京都立工芸高等学校 卒業
2010 多摩美術大学彫刻学科 卒業
2010 神奈川県立弥栄高等学校 美術授業補佐(〜2012,3)
2012 多摩美術大学大学院 修了
2012 成城学園中学校 着任
    一般財団法人 東京私立中学校高等学校協会運営役員(2013〜2015)
2015 成城学園初等学校 着任
    向島二丁目睦町会 青年部(2003,3〜現在)
    造形教育センター 事業部長(2016,10〜2022.8)
2023 造形教育センター 研究次長(2023,9〜現在に至る)

教育活動
・世田谷区立保育園 講演会「こどもの心を開放する表現活動」
・『誰でもできる!オンライン学級の作り方』(東洋館出版 共著)
・東京初等学校協会メディア部会 講演「図工におけるICT活用の可能性」
・母親アップデートコミュニティ 講演「子どもの作品の見方・向き合い方」
・東京初等学校協会図工部会 講演「図工のおけるICT活用の模索」
・ポケットミーティング 講演「こどもの表現~三つの領域を豊かに往還する子どもの姿から~」(美育文化)
 他多数…

制作活動
2008 「サイトウシンゴタカハシマコトハシモトマサヒロ彫刻展」 神保町 ギャラリーアミュレット
    「gardens展 多摩美術大学イイオ食堂ギャラリー
    劇団パパ・タラフマラ 「新・シンデレラ」小道具制作
2010 川崎市立子ども夢パーク 噴水オブジェ制作
    在日ファンク プロモーションビデオ制作
    「via art 2010展」入選 銀座シンワアートギャラリー
2011 「鬼の居ぬ間に洗濯展」 多摩美術大学彫刻ギャラリー
2015 「たまたま展」 大森 パロスギャラリー
2016 「つくるこども展」 成城さくらさくギャラリー
2017 「つくるこども展ⅱ」 成城さくらさくギャラリー
2018 「つくるこども展ⅲ」 成城さくらさくギャラリー
2019 「つくるこども展ⅳ」 成城さくらさくギャラリー
2023 「つくるこども展v」 福沢一郎記念館


 


【展覧会】「PROJECT dnF」第13回 馬場美桜子個展「折り目をあるく」10/17-11/2

 
福沢一郎記念美術財団では、1996年から毎年、福沢一郎とゆかりの深い多摩美術大学油画専攻卒業生と女子美術大学大学院洋画・版画専攻修了生の成績優秀者に、「福沢一郎賞」をお贈りしています。
この賞が20回めを迎えた2015年、当館では新たな試みとして、「PROJECT dnF ー「福沢一郎賞」受賞作家展ー」をはじめました。
これは、「福沢一郎賞」の歴代受賞者の方々に、記念館のギャラリーを個展会場としてご提供し、情報発信拠点のひとつとして当館を活用いただくことで、活動を応援するものです。

福沢一郎は昭和初期から前衛絵画の旗手として活躍し、さまざまな表現や手法に挑戦して、新たな絵画の可能性を追求してきました。またつねに諧謔の精神をもって時代、社会、そして人間をみつめ、その鋭い視線は初期から晩年にいたるまで一貫して作品のなかにあらわれています。
こうした「新たな絵画表現の追究」「時代・社会・人間への視線」は、現代の美術においても大きな課題といえます。こうした課題に真摯に取り組む作家たちに受け継がれてゆく福沢一郎の精神を、DNA(遺伝子)になぞらえて、当館の新たな試みを「PROJECT dnF」と名付けました。

今回は、馬場美桜子(多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業、同大学院美術研究科博士課程前期修了、2014年受賞)の展覧会を開催いたします。

なお、アトリエ奥の部屋にて、福沢一郎の作品・資料もご覧いただけます。


馬場美桜子   折り目をあるく

普段何気なく通り過ぎる道で植物が目に入るとき、その植物の状態について考える。

植物の生と死の境界線はとても曖昧で、行き来しているようで、時に両者が混在している。
一部が枯れていても、同時に他の部分はまだ生きていることがある。

畑の隅や路傍に打ち捨てられた植物を見つめていると、それらがまだ生きているかのように感じることがある。
植物はいつから枯れ始め、どこから死に至るのか。
どちらでもあり、どちらでもない、途中の地点をあるいてみる。

ーー作家のことば


《transformation》2022年 162×194cm 油彩・キャンバス 撮影:秋葉雅士
 
 

《beginning》2024年 65.2×53.0cm 油彩・キャンバス
 
 

馬場は、卒業制作以来、一貫して植物の諸相を描きつづけています。みずみずしさをたたえたもの、朽ち枯れて変色してしまったものなどを、ひとつの画面に同居させ、精緻な筆致であざやかに描き出した作品は、生と死のはざまでゆれ動くような世界へとわたしたちをさそいます。今回はそんな画家の制作を、新作・旧作を織り交ぜて紹介します。

◯馬場美桜子(ばば・みおこ)
1991年東京生まれ。2014年、多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業〈福沢一郎賞〉。2016年、同学大学院美術研究科修士課程 絵画専攻油画研究領域修了〈辰野登恵子賞〉。2024年3月まで同学油画研究室助手。

発表歴
・個展
2023 『積みあげられた湿度』 crispy egg gallery/神奈川
2017 『corpse』 東京九段 耀画廊/東京

・グループ展・公募展
2024 『絵画の筑波賞』展2024 茨城
2022 『多摩美術大学 助手展』東京
   『神奈川県美術展』神奈川
   『アートプロジェクト高崎2022』群馬
2021 『多摩美術大学 助手展』東京
   『アートプロジェクト高崎2021』群馬
2017 『耀画廊選抜展vol.1』東京
2015 『TERRADA ART AWARD 2015』東京
   『佐藤国際文化育英財団 奨学生美術展』東京

受賞
2024 絵画の筑波賞2024 準大賞
2022 第57回 神奈川県美術展 県議会議長賞
2016 第1回 辰野登恵子賞 (多摩美術大学)
2015 テラダ・アート・アウォード2015 審査員賞
2014 第19回 福沢一郎賞 (多摩美術大学)

助成
2014 公益財団法人佐藤国際文化育英財団 第24期奨学生

 

 

会期:2024年10月17日(木)- 11月2日(土)
※木・金・土曜日開館 
13:00 – 17:00 観覧無料


【展覧会】PROJECT dnF 第11回  中村花絵「May I have a large container of coffee ?」アーティストコメント

《Meme 01》2023年

中村花絵 アーティストコメント … 往復メールから

2023年12月〜2024年3月
ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


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中村花絵(なかむら・はなえ)
北海道網走郡生まれ。2015年女子美術大学大学院美術研究科博士前期課程美術専攻版画研究領域修了(福沢一郎賞、美術館賞、美術館収蔵作品賞)。
主な発表歴:2015年、「個展」(Oギャラリー/銀座)、2016年「FINE ART/UNIVERSITY SELECTION 2016-2017」(茨城県つくば美術館)、2017年「cross references: 協働のためのケーススタディ」(アートラボはしもと)、2018年「Who are you? 松浦進 × 中村花絵 Contemporary Print Exhibition」(網走市立美術館)、2022年「帯広美術館開館30周年記念道東アートファイル2022+道東新世代」(北海道立帯広美術館)、2023年「第12回高知国際版画トリエンナーレ展」(いの町紙の博物館/高知)
パブリックコレクション:町田市立国際版画美術館、沼津市庄司美術館、女子美術大学美術館、士別市立博物館
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展示風景

展示空間について考える

—- 福沢一郎記念館での個展について、まずは率直な感想をお聞かせ願えますか。

中村 画家のアトリエとして使用されていた建物の空間を生かしたいと思いながら展覧会を組み立てました。アトリエという現場性を尊重し、イーゼルを使った作品やフレーム(額)に収めない作品、展示台をダンボールの寄せ集めで作るということをしてみたのですが、良い意味で隙のある空間になったのではないかと思っています。

—- 「隙」というのは、具体的にどんなことでしょう?

中村 私の言う「隙」は、不完全である状態を肯定している様を指しています。
アトリエは作品を見る場というよりも圧倒的に作る場として機能しています。また、FIX(完成作品)とRAW(未完成作品や習作、試作)が同居する場というイメージもあり、もともとアトリエであったこの場の現場性はむしろ蔑ろにしないで作品と関与させていった方が空間に意味が出て面白く映るのではと考え、展示作品の多くはRAW的な形態での展示方法を採用しました。
アトリエに在る状態を想起できる「隙」のある形態(不完全さ)を模すことで、作る行為やプロセスなどの構造的な側面をより明示的に述べられる効果を与えられたのではないかと思います。私の作品は制作手法が強度の幹となっている節があるので、そこがクリアに見えるのはこの場所の力もあったのではないかと感じています。

—- これまでの個展やグループ展でも、展示計画にあたっては、個々の作品ばかりでなく展示そのものの意味や、伝わりかたについて、あれこれ考えを巡らせることは多かったのでしょうか。

中村 そうですね。ホワイトキューブのような空間は、作品を積極的に見るための構造となっており、作品と鑑賞者の間にそれなりの緊張感があるように感じることが多いのですが、記念館はそれとは対照的な印象がありました。生活の延長線上に在るような佇まいで、作品以外つまり背景も良く見える空間なので、作品と建物の二つの立場を分断せずに地も図も見える空間を作ることを目標にしていました。

—- なるほど。そのような意識は、中村さんの制作に関する考えが強く影響しているように思えます。

中村 私は制作という行為を、その時に関心を持った事柄について探求するための手段として利用しています。
制作には写真に頼ることが多いのですが、その大きい理由として、
①実存する像を捉えることができる
②感情に左右されずその状況のみを切り取ることができる
の2つが挙げられます。版表現との相性が良いことや自分自身の描く線に抵抗があるということもありますが、とにかく写真は私の中で極めて重要なメディウムです。
作品を通して共感を求めたり強い主張を唱えたりしたいということはあまり思っておらず、この仕組みってこういうこと?とか、具体的にあらわすとしたらこんな感じ?と考えながら自分の中で捏ねくり回していたら、いつのまにか生まれてきた!という状況がとことん多いように思います。表層に表れるイメージは自分の良いと思うフォルムや色感、リズムを自然と成してくれるので、最近はその感性をシンプルに受け入れるようにしています。
このように、私は「制作」をある関心事を考えたり整理するための営み、「作品」はそれらを具象化する試みの最中にできた副次的な産物と見なしています。
故に、表層上には核となる関心事が表れにくいので、よくわからないと言われることがとても多いです。ただ、私はそのわからないという感情を肯定的に捉えています。わからないという感情は考えた結果で生まれる感情です。
展覧会は自分自身の関心事を振り返ったりそれらをまとめる場になるよう課していますが、鑑賞者には、わからなさに立ち会ってもらい、直感的に作品を楽しんでもらえる場にできたら、と考えています。


展示風景

作品について –見ることの意味

—- さて、それではそれぞれの作品についてもお話うかがっていきましょう。
まずは、東側の木の壁に3点並んで飾られた、少しレトロな雰囲気の漂う作品(図1、2)。昔の集合写真のようですが、よくみると顔がものすごく単純な線と点で描かれていて、いったいこれは何?そもそもどんな人たちなの?と不思議に思う方が多くいらっしゃいました。これらの作品のモチーフはどんなものですか? 

図1 東壁の展示 左から《BASEBALL BOYS(1932)》, 《CAFE STAFFS(1935)》, 《INVESTIGAORS(1930)》
《CAFE STAFFS(1935)》 2023年

中村 これらは地元の博物館に所蔵されていた戦前の写真がもとになっています。
写真機を目の前にして、動かないようにジッとしている人々の様子がお地蔵さんのような石の塊のように見えて可愛らしく思い、その人たちを切り取りました。

—- なるほど、お地蔵さんのような…。しかし、ただ可愛らしいだけではなく、どことなくシニカルな視線もうかがえます。

中村 現在はいつでも誰でもパシャパシャ撮影できるような時代なので、写真で何かを残すこと自体の価値観が格段に違うことが被写体のポーズや身なりの整え方などから現れているように思います。
また、集合写真のあり方にも私は疑問を持っていて、その行事があったことの証明のための儀式のようだと昔から感じていました。今回の制作にあたっても、最初のうちは現在に至るまでにどんな行事があったのかという内容を追いながら所蔵写真を眺めていたのですが、眺めているうちに被写体に映るその人たち自体を見ていないことに気付きました。個が喪失されて全体として認識してしまう統制的な処理が自分の中で無意識に行われていることを危惧し、自分への警鐘という意味合いでも作品にして残しておこうと思いました。

—- 作品はモノクロで刷られているようにみえますが、黒というわけではないですよね。少し明るめのグレーのようにもみえます。インクはどんなものを使っていますか?

中村 インクはパール顔料などの極小の粒子が入ったアクリル絵の具を使っています。スクリーンプリントは型紙やステンシルのように孔からインクを落として図像を写しとる技術なので、その特性を活かせるインクを採用しました。
 被写体の中には彫像のようにしっかりとしたポーズで写っている人もいて、そこから着想を得て石膏のような色合いを考えました。石膏像の強い発色の白よりは落ち着いた彩色ですが、紙の白を起点としたゆるやかな階調で主張しすぎない完成形を目指した結果です。

—- そういえば今回、石膏粘土でつくられた可愛らしい彫像が展示されていますね。また、その彫像をまるで木炭デッサンのようにプリントした作品もあります(図3、4)。私などは、石膏像とデッサン的な版画の関係に思いを巡らせるうち、ちょっと不思議な気分になってしまいます。これらの制作の意図はどんなところにあるのでしょう?

図3 左から《plaster cast drawing 02》, 《plaster cast drawing 01》, 《plaster cast 02》(右壁の台の上), 《plaster cast 01》(同)
図4《plaster cast drawing 02》2021年

中村 石膏デッサンは自身の観察力や手による技術を養うための訓練として行われることが一般的ですが、この作品は石膏を撮影してデッサンのような画像処理を行ったのちに版を通して印刷をしています。あたかも石膏デッサンをしているような形式を装っていますが、全くその行為は行っていません。見えている結果と実際のプロセスは全く乖離していて、その行為の意味、つまり描くこととはなにかを考えるために制作しています。

《contrapposto》2023年

作品について  –版画と複製技術

—- 今回の展覧会のメインビジュアルになっている《Meme 01》は、他の版画作品とはまた違った「不思議」を放っていますね。誰しも見たことがあるようで、ちょっと違う…。そして、この画像がどんなふうにできているのか…とても謎めいています。いったいどんなふうにつくられているのでしょう?

中村 対象を撮影した印刷物を大部数用意し、その印刷物を1㎜ずつずらして折り込んだ後にそれらを積み重ねてイメージを復元していくという手法で制作しています。積み重ねの工程で、その順番を変えたり減らしたりするなどの人為的なエラーを加えてイメージを操作し、最後にスキャンをして完成に導いています。

—- 複雑な制作工程を経ているんですね。でも、そうした手わざを思い起こさせない軽やかさを作品から感じますし、やはり何かこう、中村さんの批判精神というか、シニカルな視線をここにも感じます。

中村 現代はイメージが複製されることやそれらを編集・公開することがとても容易な時代です。本物(オリジナル)が意図している内容や機能から本来の意味がどんどん離れ拡散されていく現象を目の当たりにすることが多くあります。そんな中、ヴァルター・ベンヤミンという批評家が1936年に発表した『複製技術時代の芸術作品』のある文章を思い出しました。
ベンヤミンは、公共的かつ同時的な作品鑑賞が可能な、映画館という場での大衆の批判的/享受的態度が融けあう反応を肯定的に評した一方で、1回性や礼拝的な価値を持った絵画作品の鑑賞は、ヒエラルキーの序列に従うことを余儀なくされ、大衆は保守的な反応しか示さないという主旨の内容を記し、映画などの複製技術による文化の民主化を大いに歓迎していました。彼の反ファシズム的な主張が強く反映されていますが、政治的な観点から切り離しても複製技術のあり方について考えさせられる文章であるように思います。
現代は文化の民主化が急進し、SNS等を通じて誰もが意見や創作物を発信することができますが、そうした中で過剰な表現が目立って拡散されるようになりました。複製技術も更に発展した中で起きている氾濫を、ベンヤミンだったらどう見るのだろうかと、ふと考えてしまいます。

《Meme 03》2023年

—- それにしても、複製され流布するイメージいえば、やはり版画という技法がその端緒であったことを思い起こさずにはいられません。中村さんご自身が版画制作に関わるなかで、これら「複製技術」が抱える現今の問題について、深く考えるようになったということでしょうか。

中村 日常の中で無意識に版画との連関を持たせながらなにかを思考していたことが多いかもしれません。自分自身の作品も全てにおいて版画という技術を取り入れてはいませんが、ものの見方の根底として「層(レイヤー)の意識」や「複製されていくこと」、「身体から少し距離を置いて物事を考えてみること」などは版画の制作の中で仕込まれたように思います。

—- 版画という技法によって育まれた思考とその方向性が、いまの中村さんの制作のバックボーンになっているというわけですね。それでは、今後ご自身の制作が目指すもの、あるいは探りたいと考えているところがありましたら、教えてください。

中村 ざっくりですが、現代を形作っているものの嚆矢はなんだろうと気になることがしばしばあります。どうしてこうなったんだろうと思う事柄が、私的な範囲にも、社会的な規模でも数えきれないくらい蔓延していると日々感じますが、それを整理して自分の立ち位置を確かめるために私は制作という手段を取っています。
目に見えない物事の構造を視覚化できる造形芸術に頼りながら、そうしたこと/特に忘れたくないことを題材に表現していければと思います。


左から 《Meme 02》2023年, 《Meme 03》2023年, 《Meme 04》2023年(段ボールの台上の作品)

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中村の制作の興味は、わたしたちが日々体感する視覚そのものに向けられている。 見ることで認知するもの・ことと、その実態は決してイコールではない。見ているものに関する情報の量やその偏り、先入観などによって、印象や感覚に個人差が生じてしまうことは日常茶飯事だ。雑多な視覚情報が日々とてつもない量で氾濫する現代において、その傾向はいっそう強まっているように思われる。
この現状にまず疑いの眼を向け、わたしたちが視るものの実在ではなく、視た、あるいは視てきたもの・ことを批判的に問い直すのが、中村の制作の骨子であるようだ。それは大学院の修了制作以来、多少の振幅を伴いながら強さを増して、文字通り作品のバックボーンとなっている。
作家が今回新たに取り組んだ制作は、20世紀前半に活躍した思想家・批評家ヴァルター・ベンヤミンの著作に触発をうけ、大量消費される特定の、アイコニックな商品のイメージを細分化し、人為的にエラーを加え再構築することで、その実体をあやふやにしてしまうものだった。確かに見たことはあるけれど、何か違う。その違和感こそが、社会に大量に流布しながら変容・変質してゆくイメージのありようを示している。
イメージやことばが、消費される過程でずれや転置を起こし/起こされ、本来の意味や意義をうしない、ついに全く異なる存在へと変貌してしまう。このことに着目し、既成概念の破壊と反逆を試みたのが、20世紀初頭の芸術運動ダダであり、それを創造的に継承したのがシュルレアリスムであった。彼らの運動と制作には確かに、時代を反映した重要な働きがあった。翻って現代に眼を向けると、もはや芸術上のイズムは霧散し、表現手法やその理念は、見かけ上は、完全に個人の掌中に帰するものとなった。
絵画や彫刻などの造形芸術の一回性、すなわち「ほんもの」であることを重視する芸術観に前時代的な権威をみて、それを無効化する「複製技術」による芸術作品、たとえば写真や映画に、同時代的な意義を見出したベンヤミンは、ダダの破壊的な芸術運動の意義が、20年近い時を経てはじめて実感できるようになったと、1930年代後半の著作で述べている。しかし彼の称揚した写真や映画、そしてダダの「作品」までも、彼が捨て去ろうとした「ほんもの」の芸術の権威に取り込まれてしまい、アクチュアルな意義はすでに過去のものとなりつつある。それらに取って代わるように、デジタルデータが織りなす画像・動画や仮想空間がわたしたちの周りを取り囲み、現実と仮象のあいだすらあやふやにしている。
だからこそ、わたしたちは、いま視ているもの・ことが、自らにとってどんな意味をもつのか、時折考えてみる必要があるだろう。中村の制作は、そんな現代的な視覚の問題を、改めて思い起こさせる。しかしその「それはほんとうか」という問いかけ、すなわち制作は、鋭い切れ味を伴うものではなく、どちらかといえば皮肉やおかしみをまとった、ややレアな状態でわたしたちの前にあらわれている。近年その傾向はいっそう強くなっているようだ。
「『制作』をある関心事を考えたり整理するための営み、『作品』はそれらを具象化する試みの最中にできた副次的な産物」と捉える作家の態度は、問いの切っ先を研ぎ澄ませるよりも、ゆるやかな造形でもって表現することへとつながっている。その問いがじかに届かなくてもかまわない。さまざまな思考や疑問が視る者の中に、静かにわきおこってくれれば、それでよい。そんな作家の心持ちは、それぞれの作品に親しみと、ある種の強さを付与している。
シニカルで理智に富んだ作家の制作は、これからもゆるやかに変転し、わたしたちに問いかけるだろう。あなたが視ているものは、ほんとうなのか、と。

伊藤佳之

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【展覧会】シュルレアリスム100年記念特別企画 福沢一郎にとってシュルレアリスムとは何だったのか 5/9-6/8



このたび、福沢一郎記念館(世田谷)では、展覧会「シュルレアリスム100年記念特別企画 福沢一郎にとってシュルレアリスムとは何だったのか」を開催いたします。

 福沢一郎は、「日本における本格的なシュルレアリスム絵画の紹介者」と評されてきました。もちろん、彼が昭和初期の前衛絵画、特にシュルレアリスム絵画の展開にたいへん重要な役割を果たしたことは事実で、その足跡は無視できないものです。

 しかし、彼はシュルレアリスムというフランス発の芸術思想、そしてそれに共鳴した芸術家たちの運動を、そのまま日本に移入しようとしたわけではなく、またその思想や運動に全面的に共感していたわけではありません。

 では、彼にとってシュルレアリスムとはいったい何だったのでしょう? 単なる一過性の現象にすぎなかったのでしょうか? あるいは、それ以上の重要な意味をもって、彼の画業に影響をあたえ続けたのでしょうか? そして、福沢にとっての「シュルレアリスム」理解とそれに基づく制作や論評は、同時代の美術の動向にどのように作用したのでしょう?

 この展覧会は、福沢一郎のいわゆる「シュルレアリスム絵画」を展示するほか、日本のアートシーンに衝撃をあたえた「第1回独立美術協会展」の出品作の複製パネルや、未公開の福沢旧蔵文献資料などを展示し、彼の考える「シュルレアリスム」、彼が「シュルレアリスム絵画」で実現したかったこと、そしてそれらの意味・意義をさぐるささやかな試みです。


《蝶(習作)》 1930年

《教授たち―会議で他のことを考えている》 1931年

《水泳群像》 1935年(複製パネルを展示予定)

会 期:2024年5月9日(木)―6月8日(土)の
    木・金・土曜日 13:00 -17:00(入館は16:30まで)
    ※ 5月25日(土)は講演会を聴講される方のみの観覧となります 
観覧料:300円


※講演会開催のお知らせ

「シュルレアリスムと福沢と日本の前衛」

全国3会場を巡回している展覧会「シュルレアリスムと日本」の企画者であり、日本のシュルレアリスム絵画の先駆的研究者のひとり、三重県立美術館館長の 速水豊氏 をお招きし、日本の前衛絵画の展開について、独自の視点でお話いただきます。

日時:2024年5月25日(土)14:00-15:30
講師:速水 豊 氏(三重県立美術館 館長)
会費:1,000円(観覧料込)
定員:先着30名様(定員になり次第締め切ります)

お申込はGoogleフォームにて承ります(5/9より)。
【5/13】定員に達しましたため、受け付けを終了いたしました。
たくさんのお申込ありがとうございました。


【展覧会】「PROJECT dnF」第12回 中村花絵個展「May I have a large container of coffee?」11/9-25

福沢一郎記念美術財団では、1996年から毎年、福沢一郎とゆかりの深い多摩美術大学油画専攻卒業生と女子美術大学大学院洋画・版画専攻修了生の成績優秀者に、「福沢一郎賞」をお贈りしています。
この賞が20回めを迎えた2015年、当館では新たな試みとして、「PROJECT dnF ー「福沢一郎賞」受賞作家展ー」をはじめました。
これは、「福沢一郎賞」の歴代受賞者の方々に、記念館のギャラリーを個展会場としてご提供し、情報発信拠点のひとつとして当館を活用いただくことで、活動を応援するものです。

福沢一郎は昭和初期から前衛絵画の旗手として活躍し、さまざまな表現や手法に挑戦して、新たな絵画の可能性を追求してきました。またつねに諧謔の精神をもって時代、社会、そして人間をみつめ、その鋭い視線は初期から晩年にいたるまで一貫して作品のなかにあらわれています。
こうした「新たな絵画表現の追究」「時代・社会・人間への視線」は、現代の美術においても大きな課題といえます。こうした課題に真摯に取り組む作家たちに受け継がれてゆく福沢一郎の精神を、DNA(遺伝子)になぞらえて、当館の新たな試みを「PROJECT dnF」と名付けました。

今回は、中村花絵(女子美術大学大学院版画研究領域修了、2015年受賞)の展覧会を開催いたします。

なお、アトリエ奥の部屋にて、福沢一郎の作品・資料もご覧いただけます。


中村花絵
May I have a large container of coffee?


《Meme 01》 2023年
 
 

シルクスクリーンを中心に、さまざまな版画技法を駆使して街の風景や歴史、さらには複製され伝播する視覚そのものに切り込む制作をおこなう中村花絵の制作を、新作を中心にご紹介します。

◯中村 花絵(なかむら・はなえ)
1990年北海道網走郡生まれ。2013年、女子美術大学芸術学部絵画学科洋画専攻版画コース卒業〈加藤成之記念賞,美術館賞〉。2015年、女子美術大学大学院美術研究科修士課程美術専攻版画研究領域修了〈福沢一郎賞,美術館賞,美術館収蔵作品賞〉。

主な発表歴
2015 個展(Oギャラリー/銀座)
2016 女子美の新星(女子美術大学美術館)
2016 FINE ART/UNIVERSITY SELECTION 2016-2017(茨城県つくば美術館)
2017 cross references: 協働のためのケーススタディ(アートラボはしもと)
2018 現在への起点 —女子美収蔵作品を中心に—(女子美術大学美術館)
2018 Who are you? 松浦進 × 中村花絵 Contemporary Print Exhibition(網走市立美術館)
2022 帯広美術館開館30周年記念 道東アートファイル2022+道東新世代(北海道立帯広美術館)
2022 めくられるページ、横切るハト。(小金井アートスポット シャトー2F/武蔵小金井)
2023 第12回高知国際版画トリエンナーレ展(いの町紙の博物館/高知)

パブリックコレクション:
町田市立国際版画美術館, 沼津市庄司美術館, 女子美術大学美術館, 士別市立博物館

◯作家のことば◯
「大きい容器でコーヒーをいただけますか?」と訳せるタイトルのフレーズは英語圏での円周率の記憶法らしい。それぞれのスペルの数をカウントしてみると、少数第七位までを示すことができる。実のところ、コーヒーは所望していない。円周率を覚えるためにどれくらい汎用されているかは想像しえないけれども、「May I have a large container of coffee ?」というフレーズとスペルのリズム形態を模倣して別の着地点を見つけ伝播した事実はおもしろい。
姿かたちは同じでも公の意味から離れて滑稽あるいは斬新な態度を示した途端、その対象への認識が根本的に変化するケースはザラにある。コーヒーが円周率に飛躍したように、既知の事柄を模倣し伝達される過程で進化や変異を起こして築かれた文化もきっと多く存在しているはず。現にネットスラングにはそうした事例が多く登場し、小さなコミュニティの中で繁栄と衰退を繰り返している。
模倣されたものの拡散を助けたのは複製技術にほかならない。ヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」(1936年)の中で当時のファシズムの潮流に背き、大衆文化の発展を促進する手段として芸術作品の複製技術を肯定した。多様性という言葉がポジティブに拡散した現代、私たちはSNSなどのメディアを通してさまざまな意見を交わし議論できる環境に在る。しかしながら、卑劣なユーモアや過剰な反応も目立ち、その全てには首肯しかねる。映画「バービー」と「オッペンハイマー」がアメリカで同日に公開されることを理由に、SNS上で原爆を軽視しているとみられる「#BARBENHEIMER」の件は記憶に新しい。模倣・複製・拡散のオペレーションが唾棄すべき発想を世の中に定着させてしまった。
改めてベンヤミンの思弁を想う。複製される(あるいはされた)ものを扱いながら考えてみる。

 

 

会期:2023年11月9日(木)- 25日(土)
※木・金・土曜日開館 
13:00 – 17:00 観覧無料


【展覧会】知られざる福沢一郎 Kコレクションからひもとく人間像  10/5 – 28


このたび、福沢一郎記念館(世田谷)では、展覧会「知られざる福沢一郎 Kコレクションからひもとく人間像」を開催いたします。

 春の展覧会「とっておきの福沢一郎Ⅲ 精選・松浦コレクション」に続き、この秋も、個人コレクターの所蔵作品から、福沢の描く人間像に迫ります。
これまでほとんど紹介されることのなかった、小粒でピリリとアクセントの効いた作品の数々。そこには福沢の「人間」に向けた鋭いまなざしがあらわれています。この機会にぜひごらんください。


《顔》 1955年

《牧神》

会 期:2023年10月5日(木)―28日(土)の
    木・金・土曜日 13:00 -17:00(入館は16:30まで)
観覧料:300円


【展覧会】PROJECT dnF 第10回  清水香帆「漂う光」アーティストコメント

《閃光》2022年

清水香帆 アーティストコメント … 往復メールから

2022年12月〜2023年3月
ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


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清水香帆(しみず・かほ)
東京生まれ。2012年女子美術大学大学院美術研究科博士前期課程美術専攻洋画研究領域修了(福沢一郎賞)。2013年「第1回損保ジャパン美術賞 FACE2013」入選、「トーキョーワンダーウォール公募2013」入選。2015年「群馬青年ビエンナーレ2015」入選。2016年「シェル美術賞展2016」入選。
近年の主な個展:2020年 「辿る先」 Creativity continues 2019-2020(Rise Gallery、東京)、2022年「柔らかい波」 Creativity still continues (Rise Gallery、東京)。近年の主なグループ展:2020年 「松本藍子+清水香帆」Creativity continues 2019-2020/「松本藍子+清水香帆+江原梨沙子+井上瑞貴+吉田秀行」Creativity continues 2019-2020(いずれもRise Gallery、東京)/「Collaboration Project Vol.3 MASATAKACONTEMPORARY+RISE GALLERY」(Masataka Contemporary、東京)。
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展示風景

タイトル「漂う光」について

—- まずは、福沢一郎記念館で個展を開催した、率直な感想をお願いします。

清水 今回、過去作と新作を同時に展示させていただいたのですが、実は今までそのような機会は殆どなく、自分にとって新鮮な体験となりました。 記念館は大学院生の時にはじめて訪れたのですが、高い天井に明るい光、木目で構成された内装が印象的でとても素敵な場所だと感じていました。その後、記念館でPROJECT dnFの企画がはじまり、いつか自分も展示させていただけたら…と密かに思っていたので、お話をいただいた時は素直に嬉しかったです。

—- そう言っていただけて、うれしいです。やはり、当館での展示を意義深いと感じてくださる方にこそ、福沢のアトリエを使っていただきたいと考えておりますので。 さて、これまでの個展は、主に新作の発表の機会としてらっしゃったのですね。今回、新作と過去作を取り合わせた展示づくりをしてみて、例えば作品選びのポイントなど、考えたことや意識したことがあれば、教えてください。

清水 作品一点一点の存在だけでなく、作品同士の関係や差異によって見えてくるものがあると思いますが、今回過去作を選ぶにあたって、朧げでも点と点が繋がるような、あるいは言葉には出来ずとも何か漂うものを掬いとることができるような構成にしたいと考えました。
個展タイトルが『漂う光』でしたが、実際に展示した作品も、時に距離や奥行きを飛び越えて眼前に迫ってくる『光』という存在を意識したものが多かったように感じています。

—- そうそう、「漂う光」という個展タイトル、とても気になっていました。ここ数年の清水さんの個展タイトルをみると、「波」とか「境」あるいは「かたち」ということばが出てくるので、描き出す形象というか輪郭というか…そうしたところに意識が向かっているのかな、と思っていたのです。今回は、光というかたちのないものをテーマに掲げていらっしゃる。しかも「漂う」という、ちょっと不確かな印象をもつことばで修飾しているところが、今までとずいぶん違っているように思いますが、ご自身の意識はどうですか?
今回のタイトルを「漂う光」とした理由とあわせて、教えてください。

清水 伊藤さんにご指摘いただいて、いま気づきました(笑)自分では光が[かたちのないものである]と意識していなかったようです。話が少し変わりますが、私は生まれつき強い飛蚊症なんですね。
 ※参考:「飛蚊症とは」(参天製薬HPより)
なので、視界には常に薄暗い影が無数に漂っているんです。明るい場所や真っ白い壁面は影が露骨に見えるのでかなり辛いのですが、そのように見ること(光を感じること)は自分の中の影の形を感じることでもあり、光という存在も私の中では形体と繋がっているのかもしれません。光が実体のないものだとは分かっていても、浮かび上がるようなもの、捉え所のないもの、そんな[存在や形]であるようにどこかで考えている。ですから「漂う光」というタイトルも、「漂う」という揺れ動くような、曖昧に滲んでいくような感覚と、実体のない存在でありながら、私にとっては形体や距離を想起させる両儀的なものでもある「光」を合わせたものになりますね。
何故このタイトルにしたのかという点については、今回の展示作品や会場を考えた際にしっくりきた、というのが正直な気持ちです。


展示風景

—- なるほど! ご自身のなかでは「かたち」や「境」と、「光」いうテーマは一貫したものだったのですね。
そういえば、清水さんの作品にあらわれるかたちは、どんなものであれ、くっきりとした輪郭線や、強烈な明暗のコントラストを伴わないですよね。輪郭や陰影でかたちの強さを出すのではなく、むしろ色彩の対比とか筆のストロークとか…そんなものが、かたちの存在感を生み出しているというか…そんなふうに、私などには思えるのです。ご自身ではどのように捉えていらっしゃるのでしょう?

清水 そうですね。伊藤さんの仰る通り、輪郭線や強烈な明暗を使用することは少なく、色彩の対比や筆致で形や空間を存在させたい思いが強くあります。感覚的なこともありますが、やはり目指したいものが具体的なものごとや現実の抽象化ではないという点が一番の理由かもしれません。色やストローク、物質感やタッチ。そういったもので形体の浮遊感や距離感等、未知なものへ近寄りたいという感情で絵に向き合っています。


描き続け、画家となる

—- ではここでちょっと話題を変えまして…。絵を描くことには、ちいさな頃から興味を持っていらしたのですか?

清水 はい、絵を描くことや物を作ることはちいさな時から好きでした。ただ全然上手ではなかったです。

—- でも、美大を受験して、画家を目指してゆかれたのですから、好きなことをずっと続けておられるわけですよね。清水さんが画家を目指そうと思ったのは何時頃でしょうか? また、何かきっかけがあったら教えていただけますでしょうか。

清水 そうですね。地元の絵画教室に小学生から高校生まで通っていたので、ずっと絵は描き続けていました。
ただ画家を目指しはじめたのは大学生の後半です。卒業制作で自作について深く考えるようになったり、作品を発表する機会をいただくにつれて作家として活動していきたいという気持ちが強くなりました。

—- 絵画教室に通っていた頃に影響を受けた人、あるいは出来事などあったら教えてください。例えば絵を描くことや画家として生きることなどについて…。

清水 やはり教室の先生ですね。抽象画を描いている方なのですが、展示も拝見していたので作家活動についてなんとなく触れることができましたし、抽象画を見ることや描くことに抵抗がなかったのもその先生の影響かもしれません。

—- 抽象形態へとむかう素地は、子供の頃から形成されていた、ということですね。

清水 はい、そう思っています。

展示風景

—- 大学生の後半、作品発表の機会が画家を目指すきっかけのひとつになったというお話ですが、それはどんなものだったのでしょう? 個展とかグループ展とか…。また、そのときにどんなことに気づいたり、考えたりしたか、よろしければ教えてください。

清水 特に印象残っているものは、院生の時に参加させていただいたグループ展です。他大学の院生の方との3人展だったのですが、各大学の先生が推薦してくださった院生の展示だったこともあり、たくさんの方が作品を見に来てくださいました。そこで色々な方と話して自分の絵の弱さを痛感しました。勿論嬉しかったこともあったように思うのですが、あまり覚えていません。もっとどうにかよい絵を描きたい、もっと勉強したいと思ったことを覚えています。それ以降も制作する度、展示する度そんな風に感じており、気付いたらここまできたという気がします。「画家になろうと思った」出来事があったというより、絵を続けていたら画家になっていたという感覚かもしれません。

—- 2011年の展覧会「Switchers 3×3」(藍画廊)ですね。このとき清水さんを推薦なさった中村一美さんも、動きのある色鮮やかな抽象形態によってダイナミックな画面をつくる方ですよね。
中村さんの影響も、清水さんにとってはかなり大きかったのではないでしょうか? 作品制作だけでなく、画家としてのありようというか、考え方というか…。

清水 そうですね。中村先生に教えていただいたから今の制作があると思うくらいです。仰る通り絵の中のことだけでなく、考え方も影響を受けているかもしれません。


展示風景

色と制作

—- 清水さんの制作の特徴として、鮮やかな色彩、特に蛍光色や金銀など、まるで光を放つような強さをもった色を使っていらっしゃるところが挙げられると、私などは考えているのですが、こうした色遣いはかなり早い時期から取り入れていらっしゃるのでしょうか? また、色選びについて意識なさっていることがあれば、教えてください。

清水 はい、ピンクをはじめとする鮮やかな色彩は大学に入る以前から好んで使っていました。絵は現実を再現しなければならないという感覚が昔から薄かったので、具象的な絵でも比較的自由に色を使っていたと思います。
色選びについてですが、はじめから「この色とこの色を使った絵にしよう」と考えるのではなく、ひとつの色を置いた後に次の色を選んでいくことが多いです。特に抽象的な絵を描き始めてから強く感じますが、色って様々な距離がありますよね。マットな緑は奥に沈みますし、蛍光色のような鮮やかな色彩はポッと浮かび上がるように眼前に現れます。メタリックな色合いは光を反射しやすいからか独特の奥行きがあるように感じますし…そんな色を使って絵を作りあげたいと試行錯誤しています。
そういえば、中村先生に指導していただいた際に「色に救われることってあるよね」と言われたことがあるのですが、全くもってその通りだなと思います。色だけで絵は出来ないですが、色によって自分が作りたいものに近付いていくことが出来ると考えています。

—- 清水さん独特の色がもつ距離感…とても興味深いです。美術用語のいわゆる「色価(ヴァルール)」とはちょっと違うように私などは感じます。「色に救われる」という中村一美さんのおことばも示唆に富んでいますね。それだけ色彩と画面との関係を強く意識しているということなのですね。
キャンバスを前にして、色≒絵具や、それらがつくりだすかたちと対話を繰り返しながら、作品ができあがっていくさまを創造すると、清水さんご自身が見知らぬ世界に分け入っていくような、そんな妄想をしてしまいます。なぜかというと、清水さんの作品は、奥行きのある壮大な空間を感じさせることがとても多いので、未知の、我々が体験したことのないような世界を、私などは想像するからなのです。
そんな感想を、作品をごらんになった方から聞いたことはありますか? また、そんな感想を聞いて、ご自身はどのように感じていらっしゃるのでしょう?

清水 伊藤さんに仰っていただいたような感想を伝えていただくことは度々あります。特に大きな作品は、私自身が空間性を強く意識しているためか、そう言っていただくことが多いような気がします。もともとニューマンやロスコなどの抽象表現主義の作品が好きなので、絵を目の前にした時の身体的な感覚に興味があるのだと思います。勿論そこを目指している訳ではないのですが、オールオーバーやイリュージョン…さまざまな奥行きや距離感を許容しながら絵を考えたいと思っています。


新作《咲く明かり》について

—- そういえば、今回展示してくださった作品のなかで、《咲く明かり》(2022年)は、他のものと少し印象が違うように、私などは思います。キャンバスの縁の塗り重ねがマーク・ロスコの作品を彷彿とさせたり、かたちもエッジが立っているというよりは少し柔らかく感じたり…そう、清水さんの作品から私が感じていたクールでソリッドな感覚から、もっとソフトで、どちらかというと空気感のようなものを感じさせるような、そんな印象を私などは持っています。ご自身ではどんなふうにこの作品を捉えていらっしゃいますか?

《咲く明かり》 2022年

清水 仰る通り、柔らかさや浮き上がるような感覚を追ってみたいと思い描いた作品です。それが空気感に繋がっているのかもしれませんね。
自分としてはこの作品も空間を重視して描いているのですが、線的な要素よりも面や層を重ねて緩やかな空間を作ったのは確かです。このようなタイプの絵を描くことはあるのですが、身体と同じくらい大きな作品は今回初めて描いたので、自分の中でもまだ消化しきれていないところがあります。

—- 初めての挑戦、課題も手応えも、それぞれに感じていらっしゃるのですね。私はこの作品をみて、清水さんの制作がより豊かに、厚みを増したように感じました。これからの展開がとても楽しみです!
では最後に、ご自身の今後の制作に関して、展望や、目指してみたいこと、実現したいことなどがあれば、教えてください。

清水 地味な話になりますが、とにかく描いて考えて…を繰り返して、今回描いたような柔らかな作品やドローイング類も含め、絵をより強くしていきたいですね。自分の中では様々な課題があるので、制作を淡々と続けていくことで新たな展開に繋げていけたらと思います。


《渦流》2022年

《薄明》2022年

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まるで万華鏡のようだ。
清水の作品にはじめて出会った頃、そんな感想を抱いたことを憶えている。
画面にゆらめくかたちと色は、一瞬たりとも静止せず、私の視覚を揺さぶった。画面の中に広大な空間を感じるものもあれば、平面的・意匠的な印象が強いものもあるが、どれも大胆なストロークと鮮やかな色彩がめくるめく躍動し、私は作品との新鮮な対話を楽しんだ。
その後何度か作家自身と会い、話をうかがう機会を得たが、いつも作家は「いやあ、まだまだ…」と首をひねりながら苦笑する。最近の若い作家は謙虚な人が多い印象だが、快活で笑顔の絶えない清水の場合は、その人柄もあいまって、特に自作の評価に対して控えめに思えるのだ。自信満々で筆のストロークを重ねる作家のすがたを、私が勝手に想像しているせいかも知れない。
もちろん、清水はある確信をもって、迷うことなく自身の制作を追究し続けている。ただその確信は、歴史上絵画に求められてきた「強さ」とは違うところに向けられているようだ。私が妄想するに、作家の向く先にあるのは、わたしたちの視覚を揺さぶってやまない、形態と色彩の両方に関わる、ずれやゆらぎ、傾き、すなわち「不安定」という要素ではないか。

抽象形態を効果的に用い、すぐれて「不安定」な絵画表現を成した画家は多い。《水》(1941年)にみられるような菱形によって、静謐かつ不穏な風景を描出した山口薫(やまぐち・かおる 1907-1968)や、傾き重なりあう「きっこう」(六角形)で画面を揺り動かした杉全直(すぎまた・ただし 1914-1994)はその好例といえる。彼らは頼りなく危なっかしい形態によって、観る者を画面の内側へと強く惹きつけた。
清水の作品も、ゆらゆらと浮遊し、すうっと画面の端まで視線をさそう糸口を画面のそこかしこに準備して、観る者の視覚を捉える。ぎゅうと掴まえるのではない。なだらかな斜面を流れる水のように、わたしたちをさそうのだ。その先には、万華鏡のような、ひとつ処にとどまらない視覚の法悦がある。
ことさらに強く、盤石である必要はない。絵画のなかにひらかれた対話の窓は、作家それぞれのありようで、その向こうの広がりを示すことができれば、それでよい。さまざまな作家や教師との出会いによって、そのことに確信をもっている清水の制作は、これからもめくるめく変化をとげて、わたしたちの眼前で輝きを放つだろう。

伊藤佳之

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《water drawing 2022 (Fukuzawa Ichiro Memorial Museum) 》1, 2 2022年