1944年 アトリエ社 東京 88頁
本間岳史
元埼玉県立自然の博物館長
2001年に父(正義)が亡くなってしばらくたった頃、浦和の実家で父の書庫を覗いていた私は、『福澤一郎の秩父山塊』(1998)という小さな本を見つけた。福沢一郎の画集『秩父山塊』(1944)をドイツ文学者の池内紀が新たに編集し、判型を縮小して出版した復刻本である。私は、秩父地方の玄関口にあたる長瀞町の埼玉県立自然の博物館に長く学芸員として勤務していたので、“秩父山塊”というタイトルが目に飛び込んできたのである。図版は、奥秩父の山や谷の風景を黒色の写生用鉛筆等を用いて描いたもので、驚いたことに、それぞれのスケッチには、侵蝕、古生層との境界、秩父鉱山、石炭紀-二畳紀、中生層の露出、岩の襞(橋立鍾乳洞)、河原沢(地溝帯)など、モチーフとなった地域の地質学的所見や専門用語がちりばめられていた。そこには、福沢の地質学に関する造詣の深さや、事前に地質学的な課題を設定して現地で確認しようとする実証的な姿勢がうかがわれた。
地質学という美術とは無縁の分野を選んだ私は、福沢一郎と父の関係を知るよしもなかったが、この本をきっかけに福沢一郎の地質学者的側面に興味をもち※、父の著作『ハイトマルスベル』(1989)を読み直したり、板橋区立美術館の展覧会図録『福沢一郎絵画研究所 展』(2010)などを読み、父が学生時代に動坂の福沢絵画研究所に毎晩のように通い、福沢一郎から油彩画の手ほどきを受けていたことを知った。私はその後、福沢一郎記念館を訪ね、福沢一也御夫妻や美術館の関係の方々とお会いして話がはずみ、『秩父山塊』に描かれた場所を訪ねるツアーを企画しようということになっている。
父は新潟県長岡市の電気工務店の6人兄妹の長男として生まれ、家業を継ぐことを望まれていたが、理数系が苦手ないっぽう美術への志が強く、知人の助けも借りて親を説得し、仙台の第二高等学校を経て東京帝国大学文学部に進学した。福沢一郎と同じコースをたどっているのは興味深い。父は福沢を、白皙の風貌をもった冷静なプロフェッサーを思わせる一面と、べらんめぇ調の話しぶりや絵の表現から感じとれる理屈からはみ出た壮大なロマンを求める一面、すなわち二律背反するものが混じり合って福沢一郎の人間形成がなされ、凡人の及ばないスケールでのロマン世界が打ち立てられているのではないかと評している。『ハイトマルスベル』には、父が会った145人の美術家の人物像が語られているが、福沢一郎は、平櫛田中、アンドリュー・ワイエス、佐藤忠良らとともに、「忘れ得ぬ人々」の一人として取り上げられている。父が生前親交のあった数多くの美術家のなかでも、福沢一郎は特別な存在であったことがうかがえるのである。
本間岳史(ほんま・たけし) 地質学者。1949年生まれ。新潟大学大学院理学研究科地質鉱物学専攻修了。1981年開館の埼玉県立自然史博物館(現在の埼玉県立自然の博物館)に準備段階から関わり、学芸員として勤務。埼玉県立川の博物館館長、埼玉県立自然の博物館館長を歴任。
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