「わたしの福沢一郎・再発見」  #002《男(黄土に住む人)》

福沢一郎 《男(黄土に住む人)

《男(黄土に住む人)》

1940年 油彩・カンヴァス 116.7×91.0cm
群馬県立富岡高等学校 蔵

平出 豊
彫刻家

私は1968年4月、福沢一郎先生の母校である群馬県立富岡高等学校に入学しました。そして美術部に入部、その時はまだ「福沢一郎」の名前も作品も知らずにいます。
13歳の時、父が50歳で亡くなった、父は20歳で徴集、日中戦争・中国大陸にて左足被弾、太平洋戦争が始まり再び徴集・ビルマ(現ミャンマー)戦線、ビルマにて、2年間の捕虜後、帰国。父の青春(10年間余)は全て戦争であった。私は戦争を憎悪する様になります。
富岡高校1年生5月・べ平連バッジ『DO NOT KILL IN VIETNAM(殺すな、ベトナムで)文字・岡本太郎』を胸に付け登校。政治活動として校長室に引きずられていく。校長室で問い詰められながら、壁を見上げると、50号程の絵が掛けてあり、それを眺めて、学校長、先生の言葉が、聞こえなくなった。襤褸を纏った人が坐りこみ上奥に猛禽がいるその絵は、私の心に体の奥まで浸み込んだのです。(後の数度の処分で出会い、救われる)。
1972年私が彫刻を志した時に、その年の美術手帖4月号特集「年表:現代美術の50年1916-1968(上)」を読んでいると1940年のページにその絵があったのです(美術文化協会 第一回展 東京府美術館4・11-19 小さなモノクロ画像、タイトル「男」1940)。小さな写真ですが、その再会にかつての浸み込んだ気が硬直し心が弛緩して、時折そのページを開くようになります。
《男(黄土に住む人)》が発表された翌年に太平洋戦争が始まり、思想も人格も圧せられる時代に、その絵(あるモノ(小さな頭にも診える)に人差し指と親指を浮かし添えて、悲哀、抑怒ともつかぬ顔で凝固してそれを見詰める人)を描くことの福沢一郎先生の眼を開いた厳しい思慮が響いています。
1998年頃、池内紀編『福沢一郎の秩父山塊』を拝読、デッサンと文に、描き造る事の外の関わりの思考実践に揺れる出会いでした。
芸術が人を救い動かすとは簡単に言えませんが、私にとって福沢一郎作《男(黄土に住む人)》が、眼を開き、耳を欹(そばだ)て体を揺すり、次の体をと、教えてくれたことを、私の細胞が確かに覚えて動いています。

 


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平出 豊(ひらいで・ゆたか) 彫刻家。1953(昭和28)年、群馬県安中市生まれ。小畠廣志に師事。1980年第5回群馬青年美術展大賞受賞。1982年第5回上毛芸術奨励賞受賞。群馬県を中心に個展・グループ展多数。
公式ホームページ http://www.hiraide.info


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