【展覧会】「PROJECT dnF」第13回 馬場美桜子個展「折り目をあるく」10/17-11/2

 
福沢一郎記念美術財団では、1996年から毎年、福沢一郎とゆかりの深い多摩美術大学油画専攻卒業生と女子美術大学大学院洋画・版画専攻修了生の成績優秀者に、「福沢一郎賞」をお贈りしています。
この賞が20回めを迎えた2015年、当館では新たな試みとして、「PROJECT dnF ー「福沢一郎賞」受賞作家展ー」をはじめました。
これは、「福沢一郎賞」の歴代受賞者の方々に、記念館のギャラリーを個展会場としてご提供し、情報発信拠点のひとつとして当館を活用いただくことで、活動を応援するものです。

福沢一郎は昭和初期から前衛絵画の旗手として活躍し、さまざまな表現や手法に挑戦して、新たな絵画の可能性を追求してきました。またつねに諧謔の精神をもって時代、社会、そして人間をみつめ、その鋭い視線は初期から晩年にいたるまで一貫して作品のなかにあらわれています。
こうした「新たな絵画表現の追究」「時代・社会・人間への視線」は、現代の美術においても大きな課題といえます。こうした課題に真摯に取り組む作家たちに受け継がれてゆく福沢一郎の精神を、DNA(遺伝子)になぞらえて、当館の新たな試みを「PROJECT dnF」と名付けました。

今回は、馬場美桜子(多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業、同大学院美術研究科博士課程前期修了、2014年受賞)の展覧会を開催いたします。

なお、アトリエ奥の部屋にて、福沢一郎の作品・資料もご覧いただけます。


馬場美桜子   折り目をあるく

普段何気なく通り過ぎる道で植物が目に入るとき、その植物の状態について考える。

植物の生と死の境界線はとても曖昧で、行き来しているようで、時に両者が混在している。
一部が枯れていても、同時に他の部分はまだ生きていることがある。

畑の隅や路傍に打ち捨てられた植物を見つめていると、それらがまだ生きているかのように感じることがある。
植物はいつから枯れ始め、どこから死に至るのか。
どちらでもあり、どちらでもない、途中の地点をあるいてみる。

ーー作家のことば


《transformation》2022年 162×194cm 油彩・キャンバス 撮影:秋葉雅士
 
 

《beginning》2024年 65.2×53.0cm 油彩・キャンバス
 
 

馬場は、卒業制作以来、一貫して植物の諸相を描きつづけています。みずみずしさをたたえたもの、朽ち枯れて変色してしまったものなどを、ひとつの画面に同居させ、精緻な筆致であざやかに描き出した作品は、生と死のはざまでゆれ動くような世界へとわたしたちをさそいます。今回はそんな画家の制作を、新作・旧作を織り交ぜて紹介します。

◯馬場美桜子(ばば・みおこ)
1991年東京生まれ。2014年、多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻卒業〈福沢一郎賞〉。2016年、同学大学院美術研究科修士課程 絵画専攻油画研究領域修了〈辰野登恵子賞〉。2024年3月まで同学油画研究室助手。

発表歴
・個展
2023 『積みあげられた湿度』 crispy egg gallery/神奈川
2017 『corpse』 東京九段 耀画廊/東京

・グループ展・公募展
2024 『絵画の筑波賞』展2024 茨城
2022 『多摩美術大学 助手展』東京
   『神奈川県美術展』神奈川
   『アートプロジェクト高崎2022』群馬
2021 『多摩美術大学 助手展』東京
   『アートプロジェクト高崎2021』群馬
2017 『耀画廊選抜展vol.1』東京
2015 『TERRADA ART AWARD 2015』東京
   『佐藤国際文化育英財団 奨学生美術展』東京

受賞
2024 絵画の筑波賞2024 準大賞
2022 第57回 神奈川県美術展 県議会議長賞
2016 第1回 辰野登恵子賞 (多摩美術大学)
2015 テラダ・アート・アウォード2015 審査員賞
2014 第19回 福沢一郎賞 (多摩美術大学)

助成
2014 公益財団法人佐藤国際文化育英財団 第24期奨学生

 

 

会期:2024年10月17日(木)- 11月2日(土)
※木・金・土曜日開館 
13:00 – 17:00 観覧無料


【展覧会】PROJECT dnF 第11回  中村花絵「May I have a large container of coffee ?」アーティストコメント

《Meme 01》2023年

中村花絵 アーティストコメント … 往復メールから

2023年12月〜2024年3月
ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


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中村花絵(なかむら・はなえ)
北海道網走郡生まれ。2015年女子美術大学大学院美術研究科博士前期課程美術専攻版画研究領域修了(福沢一郎賞、美術館賞、美術館収蔵作品賞)。
主な発表歴:2015年、「個展」(Oギャラリー/銀座)、2016年「FINE ART/UNIVERSITY SELECTION 2016-2017」(茨城県つくば美術館)、2017年「cross references: 協働のためのケーススタディ」(アートラボはしもと)、2018年「Who are you? 松浦進 × 中村花絵 Contemporary Print Exhibition」(網走市立美術館)、2022年「帯広美術館開館30周年記念道東アートファイル2022+道東新世代」(北海道立帯広美術館)、2023年「第12回高知国際版画トリエンナーレ展」(いの町紙の博物館/高知)
パブリックコレクション:町田市立国際版画美術館、沼津市庄司美術館、女子美術大学美術館、士別市立博物館
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展示風景

展示空間について考える

—- 福沢一郎記念館での個展について、まずは率直な感想をお聞かせ願えますか。

中村 画家のアトリエとして使用されていた建物の空間を生かしたいと思いながら展覧会を組み立てました。アトリエという現場性を尊重し、イーゼルを使った作品やフレーム(額)に収めない作品、展示台をダンボールの寄せ集めで作るということをしてみたのですが、良い意味で隙のある空間になったのではないかと思っています。

—- 「隙」というのは、具体的にどんなことでしょう?

中村 私の言う「隙」は、不完全である状態を肯定している様を指しています。
アトリエは作品を見る場というよりも圧倒的に作る場として機能しています。また、FIX(完成作品)とRAW(未完成作品や習作、試作)が同居する場というイメージもあり、もともとアトリエであったこの場の現場性はむしろ蔑ろにしないで作品と関与させていった方が空間に意味が出て面白く映るのではと考え、展示作品の多くはRAW的な形態での展示方法を採用しました。
アトリエに在る状態を想起できる「隙」のある形態(不完全さ)を模すことで、作る行為やプロセスなどの構造的な側面をより明示的に述べられる効果を与えられたのではないかと思います。私の作品は制作手法が強度の幹となっている節があるので、そこがクリアに見えるのはこの場所の力もあったのではないかと感じています。

—- これまでの個展やグループ展でも、展示計画にあたっては、個々の作品ばかりでなく展示そのものの意味や、伝わりかたについて、あれこれ考えを巡らせることは多かったのでしょうか。

中村 そうですね。ホワイトキューブのような空間は、作品を積極的に見るための構造となっており、作品と鑑賞者の間にそれなりの緊張感があるように感じることが多いのですが、記念館はそれとは対照的な印象がありました。生活の延長線上に在るような佇まいで、作品以外つまり背景も良く見える空間なので、作品と建物の二つの立場を分断せずに地も図も見える空間を作ることを目標にしていました。

—- なるほど。そのような意識は、中村さんの制作に関する考えが強く影響しているように思えます。

中村 私は制作という行為を、その時に関心を持った事柄について探求するための手段として利用しています。
制作には写真に頼ることが多いのですが、その大きい理由として、
①実存する像を捉えることができる
②感情に左右されずその状況のみを切り取ることができる
の2つが挙げられます。版表現との相性が良いことや自分自身の描く線に抵抗があるということもありますが、とにかく写真は私の中で極めて重要なメディウムです。
作品を通して共感を求めたり強い主張を唱えたりしたいということはあまり思っておらず、この仕組みってこういうこと?とか、具体的にあらわすとしたらこんな感じ?と考えながら自分の中で捏ねくり回していたら、いつのまにか生まれてきた!という状況がとことん多いように思います。表層に表れるイメージは自分の良いと思うフォルムや色感、リズムを自然と成してくれるので、最近はその感性をシンプルに受け入れるようにしています。
このように、私は「制作」をある関心事を考えたり整理するための営み、「作品」はそれらを具象化する試みの最中にできた副次的な産物と見なしています。
故に、表層上には核となる関心事が表れにくいので、よくわからないと言われることがとても多いです。ただ、私はそのわからないという感情を肯定的に捉えています。わからないという感情は考えた結果で生まれる感情です。
展覧会は自分自身の関心事を振り返ったりそれらをまとめる場になるよう課していますが、鑑賞者には、わからなさに立ち会ってもらい、直感的に作品を楽しんでもらえる場にできたら、と考えています。


展示風景

作品について –見ることの意味

—- さて、それではそれぞれの作品についてもお話うかがっていきましょう。
まずは、東側の木の壁に3点並んで飾られた、少しレトロな雰囲気の漂う作品(図1、2)。昔の集合写真のようですが、よくみると顔がものすごく単純な線と点で描かれていて、いったいこれは何?そもそもどんな人たちなの?と不思議に思う方が多くいらっしゃいました。これらの作品のモチーフはどんなものですか? 

図1 東壁の展示 左から《BASEBALL BOYS(1932)》, 《CAFE STAFFS(1935)》, 《INVESTIGAORS(1930)》
《CAFE STAFFS(1935)》 2023年

中村 これらは地元の博物館に所蔵されていた戦前の写真がもとになっています。
写真機を目の前にして、動かないようにジッとしている人々の様子がお地蔵さんのような石の塊のように見えて可愛らしく思い、その人たちを切り取りました。

—- なるほど、お地蔵さんのような…。しかし、ただ可愛らしいだけではなく、どことなくシニカルな視線もうかがえます。

中村 現在はいつでも誰でもパシャパシャ撮影できるような時代なので、写真で何かを残すこと自体の価値観が格段に違うことが被写体のポーズや身なりの整え方などから現れているように思います。
また、集合写真のあり方にも私は疑問を持っていて、その行事があったことの証明のための儀式のようだと昔から感じていました。今回の制作にあたっても、最初のうちは現在に至るまでにどんな行事があったのかという内容を追いながら所蔵写真を眺めていたのですが、眺めているうちに被写体に映るその人たち自体を見ていないことに気付きました。個が喪失されて全体として認識してしまう統制的な処理が自分の中で無意識に行われていることを危惧し、自分への警鐘という意味合いでも作品にして残しておこうと思いました。

—- 作品はモノクロで刷られているようにみえますが、黒というわけではないですよね。少し明るめのグレーのようにもみえます。インクはどんなものを使っていますか?

中村 インクはパール顔料などの極小の粒子が入ったアクリル絵の具を使っています。スクリーンプリントは型紙やステンシルのように孔からインクを落として図像を写しとる技術なので、その特性を活かせるインクを採用しました。
 被写体の中には彫像のようにしっかりとしたポーズで写っている人もいて、そこから着想を得て石膏のような色合いを考えました。石膏像の強い発色の白よりは落ち着いた彩色ですが、紙の白を起点としたゆるやかな階調で主張しすぎない完成形を目指した結果です。

—- そういえば今回、石膏粘土でつくられた可愛らしい彫像が展示されていますね。また、その彫像をまるで木炭デッサンのようにプリントした作品もあります(図3、4)。私などは、石膏像とデッサン的な版画の関係に思いを巡らせるうち、ちょっと不思議な気分になってしまいます。これらの制作の意図はどんなところにあるのでしょう?

図3 左から《plaster cast drawing 02》, 《plaster cast drawing 01》, 《plaster cast 02》(右壁の台の上), 《plaster cast 01》(同)
図4《plaster cast drawing 02》2021年

中村 石膏デッサンは自身の観察力や手による技術を養うための訓練として行われることが一般的ですが、この作品は石膏を撮影してデッサンのような画像処理を行ったのちに版を通して印刷をしています。あたかも石膏デッサンをしているような形式を装っていますが、全くその行為は行っていません。見えている結果と実際のプロセスは全く乖離していて、その行為の意味、つまり描くこととはなにかを考えるために制作しています。

《contrapposto》2023年

作品について  –版画と複製技術

—- 今回の展覧会のメインビジュアルになっている《Meme 01》は、他の版画作品とはまた違った「不思議」を放っていますね。誰しも見たことがあるようで、ちょっと違う…。そして、この画像がどんなふうにできているのか…とても謎めいています。いったいどんなふうにつくられているのでしょう?

中村 対象を撮影した印刷物を大部数用意し、その印刷物を1㎜ずつずらして折り込んだ後にそれらを積み重ねてイメージを復元していくという手法で制作しています。積み重ねの工程で、その順番を変えたり減らしたりするなどの人為的なエラーを加えてイメージを操作し、最後にスキャンをして完成に導いています。

—- 複雑な制作工程を経ているんですね。でも、そうした手わざを思い起こさせない軽やかさを作品から感じますし、やはり何かこう、中村さんの批判精神というか、シニカルな視線をここにも感じます。

中村 現代はイメージが複製されることやそれらを編集・公開することがとても容易な時代です。本物(オリジナル)が意図している内容や機能から本来の意味がどんどん離れ拡散されていく現象を目の当たりにすることが多くあります。そんな中、ヴァルター・ベンヤミンという批評家が1936年に発表した『複製技術時代の芸術作品』のある文章を思い出しました。
ベンヤミンは、公共的かつ同時的な作品鑑賞が可能な、映画館という場での大衆の批判的/享受的態度が融けあう反応を肯定的に評した一方で、1回性や礼拝的な価値を持った絵画作品の鑑賞は、ヒエラルキーの序列に従うことを余儀なくされ、大衆は保守的な反応しか示さないという主旨の内容を記し、映画などの複製技術による文化の民主化を大いに歓迎していました。彼の反ファシズム的な主張が強く反映されていますが、政治的な観点から切り離しても複製技術のあり方について考えさせられる文章であるように思います。
現代は文化の民主化が急進し、SNS等を通じて誰もが意見や創作物を発信することができますが、そうした中で過剰な表現が目立って拡散されるようになりました。複製技術も更に発展した中で起きている氾濫を、ベンヤミンだったらどう見るのだろうかと、ふと考えてしまいます。

《Meme 03》2023年

—- それにしても、複製され流布するイメージいえば、やはり版画という技法がその端緒であったことを思い起こさずにはいられません。中村さんご自身が版画制作に関わるなかで、これら「複製技術」が抱える現今の問題について、深く考えるようになったということでしょうか。

中村 日常の中で無意識に版画との連関を持たせながらなにかを思考していたことが多いかもしれません。自分自身の作品も全てにおいて版画という技術を取り入れてはいませんが、ものの見方の根底として「層(レイヤー)の意識」や「複製されていくこと」、「身体から少し距離を置いて物事を考えてみること」などは版画の制作の中で仕込まれたように思います。

—- 版画という技法によって育まれた思考とその方向性が、いまの中村さんの制作のバックボーンになっているというわけですね。それでは、今後ご自身の制作が目指すもの、あるいは探りたいと考えているところがありましたら、教えてください。

中村 ざっくりですが、現代を形作っているものの嚆矢はなんだろうと気になることがしばしばあります。どうしてこうなったんだろうと思う事柄が、私的な範囲にも、社会的な規模でも数えきれないくらい蔓延していると日々感じますが、それを整理して自分の立ち位置を確かめるために私は制作という手段を取っています。
目に見えない物事の構造を視覚化できる造形芸術に頼りながら、そうしたこと/特に忘れたくないことを題材に表現していければと思います。


左から 《Meme 02》2023年, 《Meme 03》2023年, 《Meme 04》2023年(段ボールの台上の作品)

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中村の制作の興味は、わたしたちが日々体感する視覚そのものに向けられている。 見ることで認知するもの・ことと、その実態は決してイコールではない。見ているものに関する情報の量やその偏り、先入観などによって、印象や感覚に個人差が生じてしまうことは日常茶飯事だ。雑多な視覚情報が日々とてつもない量で氾濫する現代において、その傾向はいっそう強まっているように思われる。
この現状にまず疑いの眼を向け、わたしたちが視るものの実在ではなく、視た、あるいは視てきたもの・ことを批判的に問い直すのが、中村の制作の骨子であるようだ。それは大学院の修了制作以来、多少の振幅を伴いながら強さを増して、文字通り作品のバックボーンとなっている。
作家が今回新たに取り組んだ制作は、20世紀前半に活躍した思想家・批評家ヴァルター・ベンヤミンの著作に触発をうけ、大量消費される特定の、アイコニックな商品のイメージを細分化し、人為的にエラーを加え再構築することで、その実体をあやふやにしてしまうものだった。確かに見たことはあるけれど、何か違う。その違和感こそが、社会に大量に流布しながら変容・変質してゆくイメージのありようを示している。
イメージやことばが、消費される過程でずれや転置を起こし/起こされ、本来の意味や意義をうしない、ついに全く異なる存在へと変貌してしまう。このことに着目し、既成概念の破壊と反逆を試みたのが、20世紀初頭の芸術運動ダダであり、それを創造的に継承したのがシュルレアリスムであった。彼らの運動と制作には確かに、時代を反映した重要な働きがあった。翻って現代に眼を向けると、もはや芸術上のイズムは霧散し、表現手法やその理念は、見かけ上は、完全に個人の掌中に帰するものとなった。
絵画や彫刻などの造形芸術の一回性、すなわち「ほんもの」であることを重視する芸術観に前時代的な権威をみて、それを無効化する「複製技術」による芸術作品、たとえば写真や映画に、同時代的な意義を見出したベンヤミンは、ダダの破壊的な芸術運動の意義が、20年近い時を経てはじめて実感できるようになったと、1930年代後半の著作で述べている。しかし彼の称揚した写真や映画、そしてダダの「作品」までも、彼が捨て去ろうとした「ほんもの」の芸術の権威に取り込まれてしまい、アクチュアルな意義はすでに過去のものとなりつつある。それらに取って代わるように、デジタルデータが織りなす画像・動画や仮想空間がわたしたちの周りを取り囲み、現実と仮象のあいだすらあやふやにしている。
だからこそ、わたしたちは、いま視ているもの・ことが、自らにとってどんな意味をもつのか、時折考えてみる必要があるだろう。中村の制作は、そんな現代的な視覚の問題を、改めて思い起こさせる。しかしその「それはほんとうか」という問いかけ、すなわち制作は、鋭い切れ味を伴うものではなく、どちらかといえば皮肉やおかしみをまとった、ややレアな状態でわたしたちの前にあらわれている。近年その傾向はいっそう強くなっているようだ。
「『制作』をある関心事を考えたり整理するための営み、『作品』はそれらを具象化する試みの最中にできた副次的な産物」と捉える作家の態度は、問いの切っ先を研ぎ澄ませるよりも、ゆるやかな造形でもって表現することへとつながっている。その問いがじかに届かなくてもかまわない。さまざまな思考や疑問が視る者の中に、静かにわきおこってくれれば、それでよい。そんな作家の心持ちは、それぞれの作品に親しみと、ある種の強さを付与している。
シニカルで理智に富んだ作家の制作は、これからもゆるやかに変転し、わたしたちに問いかけるだろう。あなたが視ているものは、ほんとうなのか、と。

伊藤佳之

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【展覧会】「PROJECT dnF」第12回 中村花絵個展「May I have a large container of coffee?」11/9-25

福沢一郎記念美術財団では、1996年から毎年、福沢一郎とゆかりの深い多摩美術大学油画専攻卒業生と女子美術大学大学院洋画・版画専攻修了生の成績優秀者に、「福沢一郎賞」をお贈りしています。
この賞が20回めを迎えた2015年、当館では新たな試みとして、「PROJECT dnF ー「福沢一郎賞」受賞作家展ー」をはじめました。
これは、「福沢一郎賞」の歴代受賞者の方々に、記念館のギャラリーを個展会場としてご提供し、情報発信拠点のひとつとして当館を活用いただくことで、活動を応援するものです。

福沢一郎は昭和初期から前衛絵画の旗手として活躍し、さまざまな表現や手法に挑戦して、新たな絵画の可能性を追求してきました。またつねに諧謔の精神をもって時代、社会、そして人間をみつめ、その鋭い視線は初期から晩年にいたるまで一貫して作品のなかにあらわれています。
こうした「新たな絵画表現の追究」「時代・社会・人間への視線」は、現代の美術においても大きな課題といえます。こうした課題に真摯に取り組む作家たちに受け継がれてゆく福沢一郎の精神を、DNA(遺伝子)になぞらえて、当館の新たな試みを「PROJECT dnF」と名付けました。

今回は、中村花絵(女子美術大学大学院版画研究領域修了、2015年受賞)の展覧会を開催いたします。

なお、アトリエ奥の部屋にて、福沢一郎の作品・資料もご覧いただけます。


中村花絵
May I have a large container of coffee?


《Meme 01》 2023年
 
 

シルクスクリーンを中心に、さまざまな版画技法を駆使して街の風景や歴史、さらには複製され伝播する視覚そのものに切り込む制作をおこなう中村花絵の制作を、新作を中心にご紹介します。

◯中村 花絵(なかむら・はなえ)
1990年北海道網走郡生まれ。2013年、女子美術大学芸術学部絵画学科洋画専攻版画コース卒業〈加藤成之記念賞,美術館賞〉。2015年、女子美術大学大学院美術研究科修士課程美術専攻版画研究領域修了〈福沢一郎賞,美術館賞,美術館収蔵作品賞〉。

主な発表歴
2015 個展(Oギャラリー/銀座)
2016 女子美の新星(女子美術大学美術館)
2016 FINE ART/UNIVERSITY SELECTION 2016-2017(茨城県つくば美術館)
2017 cross references: 協働のためのケーススタディ(アートラボはしもと)
2018 現在への起点 —女子美収蔵作品を中心に—(女子美術大学美術館)
2018 Who are you? 松浦進 × 中村花絵 Contemporary Print Exhibition(網走市立美術館)
2022 帯広美術館開館30周年記念 道東アートファイル2022+道東新世代(北海道立帯広美術館)
2022 めくられるページ、横切るハト。(小金井アートスポット シャトー2F/武蔵小金井)
2023 第12回高知国際版画トリエンナーレ展(いの町紙の博物館/高知)

パブリックコレクション:
町田市立国際版画美術館, 沼津市庄司美術館, 女子美術大学美術館, 士別市立博物館

◯作家のことば◯
「大きい容器でコーヒーをいただけますか?」と訳せるタイトルのフレーズは英語圏での円周率の記憶法らしい。それぞれのスペルの数をカウントしてみると、少数第七位までを示すことができる。実のところ、コーヒーは所望していない。円周率を覚えるためにどれくらい汎用されているかは想像しえないけれども、「May I have a large container of coffee ?」というフレーズとスペルのリズム形態を模倣して別の着地点を見つけ伝播した事実はおもしろい。
姿かたちは同じでも公の意味から離れて滑稽あるいは斬新な態度を示した途端、その対象への認識が根本的に変化するケースはザラにある。コーヒーが円周率に飛躍したように、既知の事柄を模倣し伝達される過程で進化や変異を起こして築かれた文化もきっと多く存在しているはず。現にネットスラングにはそうした事例が多く登場し、小さなコミュニティの中で繁栄と衰退を繰り返している。
模倣されたものの拡散を助けたのは複製技術にほかならない。ヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」(1936年)の中で当時のファシズムの潮流に背き、大衆文化の発展を促進する手段として芸術作品の複製技術を肯定した。多様性という言葉がポジティブに拡散した現代、私たちはSNSなどのメディアを通してさまざまな意見を交わし議論できる環境に在る。しかしながら、卑劣なユーモアや過剰な反応も目立ち、その全てには首肯しかねる。映画「バービー」と「オッペンハイマー」がアメリカで同日に公開されることを理由に、SNS上で原爆を軽視しているとみられる「#BARBENHEIMER」の件は記憶に新しい。模倣・複製・拡散のオペレーションが唾棄すべき発想を世の中に定着させてしまった。
改めてベンヤミンの思弁を想う。複製される(あるいはされた)ものを扱いながら考えてみる。

 

 

会期:2023年11月9日(木)- 25日(土)
※木・金・土曜日開館 
13:00 – 17:00 観覧無料


【展覧会】PROJECT dnF 第10回  清水香帆「漂う光」アーティストコメント

《閃光》2022年

清水香帆 アーティストコメント … 往復メールから

2022年12月〜2023年3月
ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


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清水香帆(しみず・かほ)
東京生まれ。2012年女子美術大学大学院美術研究科博士前期課程美術専攻洋画研究領域修了(福沢一郎賞)。2013年「第1回損保ジャパン美術賞 FACE2013」入選、「トーキョーワンダーウォール公募2013」入選。2015年「群馬青年ビエンナーレ2015」入選。2016年「シェル美術賞展2016」入選。
近年の主な個展:2020年 「辿る先」 Creativity continues 2019-2020(Rise Gallery、東京)、2022年「柔らかい波」 Creativity still continues (Rise Gallery、東京)。近年の主なグループ展:2020年 「松本藍子+清水香帆」Creativity continues 2019-2020/「松本藍子+清水香帆+江原梨沙子+井上瑞貴+吉田秀行」Creativity continues 2019-2020(いずれもRise Gallery、東京)/「Collaboration Project Vol.3 MASATAKACONTEMPORARY+RISE GALLERY」(Masataka Contemporary、東京)。
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展示風景

タイトル「漂う光」について

—- まずは、福沢一郎記念館で個展を開催した、率直な感想をお願いします。

清水 今回、過去作と新作を同時に展示させていただいたのですが、実は今までそのような機会は殆どなく、自分にとって新鮮な体験となりました。 記念館は大学院生の時にはじめて訪れたのですが、高い天井に明るい光、木目で構成された内装が印象的でとても素敵な場所だと感じていました。その後、記念館でPROJECT dnFの企画がはじまり、いつか自分も展示させていただけたら…と密かに思っていたので、お話をいただいた時は素直に嬉しかったです。

—- そう言っていただけて、うれしいです。やはり、当館での展示を意義深いと感じてくださる方にこそ、福沢のアトリエを使っていただきたいと考えておりますので。 さて、これまでの個展は、主に新作の発表の機会としてらっしゃったのですね。今回、新作と過去作を取り合わせた展示づくりをしてみて、例えば作品選びのポイントなど、考えたことや意識したことがあれば、教えてください。

清水 作品一点一点の存在だけでなく、作品同士の関係や差異によって見えてくるものがあると思いますが、今回過去作を選ぶにあたって、朧げでも点と点が繋がるような、あるいは言葉には出来ずとも何か漂うものを掬いとることができるような構成にしたいと考えました。
個展タイトルが『漂う光』でしたが、実際に展示した作品も、時に距離や奥行きを飛び越えて眼前に迫ってくる『光』という存在を意識したものが多かったように感じています。

—- そうそう、「漂う光」という個展タイトル、とても気になっていました。ここ数年の清水さんの個展タイトルをみると、「波」とか「境」あるいは「かたち」ということばが出てくるので、描き出す形象というか輪郭というか…そうしたところに意識が向かっているのかな、と思っていたのです。今回は、光というかたちのないものをテーマに掲げていらっしゃる。しかも「漂う」という、ちょっと不確かな印象をもつことばで修飾しているところが、今までとずいぶん違っているように思いますが、ご自身の意識はどうですか?
今回のタイトルを「漂う光」とした理由とあわせて、教えてください。

清水 伊藤さんにご指摘いただいて、いま気づきました(笑)自分では光が[かたちのないものである]と意識していなかったようです。話が少し変わりますが、私は生まれつき強い飛蚊症なんですね。
 ※参考:「飛蚊症とは」(参天製薬HPより)
なので、視界には常に薄暗い影が無数に漂っているんです。明るい場所や真っ白い壁面は影が露骨に見えるのでかなり辛いのですが、そのように見ること(光を感じること)は自分の中の影の形を感じることでもあり、光という存在も私の中では形体と繋がっているのかもしれません。光が実体のないものだとは分かっていても、浮かび上がるようなもの、捉え所のないもの、そんな[存在や形]であるようにどこかで考えている。ですから「漂う光」というタイトルも、「漂う」という揺れ動くような、曖昧に滲んでいくような感覚と、実体のない存在でありながら、私にとっては形体や距離を想起させる両儀的なものでもある「光」を合わせたものになりますね。
何故このタイトルにしたのかという点については、今回の展示作品や会場を考えた際にしっくりきた、というのが正直な気持ちです。


展示風景

—- なるほど! ご自身のなかでは「かたち」や「境」と、「光」いうテーマは一貫したものだったのですね。
そういえば、清水さんの作品にあらわれるかたちは、どんなものであれ、くっきりとした輪郭線や、強烈な明暗のコントラストを伴わないですよね。輪郭や陰影でかたちの強さを出すのではなく、むしろ色彩の対比とか筆のストロークとか…そんなものが、かたちの存在感を生み出しているというか…そんなふうに、私などには思えるのです。ご自身ではどのように捉えていらっしゃるのでしょう?

清水 そうですね。伊藤さんの仰る通り、輪郭線や強烈な明暗を使用することは少なく、色彩の対比や筆致で形や空間を存在させたい思いが強くあります。感覚的なこともありますが、やはり目指したいものが具体的なものごとや現実の抽象化ではないという点が一番の理由かもしれません。色やストローク、物質感やタッチ。そういったもので形体の浮遊感や距離感等、未知なものへ近寄りたいという感情で絵に向き合っています。


描き続け、画家となる

—- ではここでちょっと話題を変えまして…。絵を描くことには、ちいさな頃から興味を持っていらしたのですか?

清水 はい、絵を描くことや物を作ることはちいさな時から好きでした。ただ全然上手ではなかったです。

—- でも、美大を受験して、画家を目指してゆかれたのですから、好きなことをずっと続けておられるわけですよね。清水さんが画家を目指そうと思ったのは何時頃でしょうか? また、何かきっかけがあったら教えていただけますでしょうか。

清水 そうですね。地元の絵画教室に小学生から高校生まで通っていたので、ずっと絵は描き続けていました。
ただ画家を目指しはじめたのは大学生の後半です。卒業制作で自作について深く考えるようになったり、作品を発表する機会をいただくにつれて作家として活動していきたいという気持ちが強くなりました。

—- 絵画教室に通っていた頃に影響を受けた人、あるいは出来事などあったら教えてください。例えば絵を描くことや画家として生きることなどについて…。

清水 やはり教室の先生ですね。抽象画を描いている方なのですが、展示も拝見していたので作家活動についてなんとなく触れることができましたし、抽象画を見ることや描くことに抵抗がなかったのもその先生の影響かもしれません。

—- 抽象形態へとむかう素地は、子供の頃から形成されていた、ということですね。

清水 はい、そう思っています。

展示風景

—- 大学生の後半、作品発表の機会が画家を目指すきっかけのひとつになったというお話ですが、それはどんなものだったのでしょう? 個展とかグループ展とか…。また、そのときにどんなことに気づいたり、考えたりしたか、よろしければ教えてください。

清水 特に印象残っているものは、院生の時に参加させていただいたグループ展です。他大学の院生の方との3人展だったのですが、各大学の先生が推薦してくださった院生の展示だったこともあり、たくさんの方が作品を見に来てくださいました。そこで色々な方と話して自分の絵の弱さを痛感しました。勿論嬉しかったこともあったように思うのですが、あまり覚えていません。もっとどうにかよい絵を描きたい、もっと勉強したいと思ったことを覚えています。それ以降も制作する度、展示する度そんな風に感じており、気付いたらここまできたという気がします。「画家になろうと思った」出来事があったというより、絵を続けていたら画家になっていたという感覚かもしれません。

—- 2011年の展覧会「Switchers 3×3」(藍画廊)ですね。このとき清水さんを推薦なさった中村一美さんも、動きのある色鮮やかな抽象形態によってダイナミックな画面をつくる方ですよね。
中村さんの影響も、清水さんにとってはかなり大きかったのではないでしょうか? 作品制作だけでなく、画家としてのありようというか、考え方というか…。

清水 そうですね。中村先生に教えていただいたから今の制作があると思うくらいです。仰る通り絵の中のことだけでなく、考え方も影響を受けているかもしれません。


展示風景

色と制作

—- 清水さんの制作の特徴として、鮮やかな色彩、特に蛍光色や金銀など、まるで光を放つような強さをもった色を使っていらっしゃるところが挙げられると、私などは考えているのですが、こうした色遣いはかなり早い時期から取り入れていらっしゃるのでしょうか? また、色選びについて意識なさっていることがあれば、教えてください。

清水 はい、ピンクをはじめとする鮮やかな色彩は大学に入る以前から好んで使っていました。絵は現実を再現しなければならないという感覚が昔から薄かったので、具象的な絵でも比較的自由に色を使っていたと思います。
色選びについてですが、はじめから「この色とこの色を使った絵にしよう」と考えるのではなく、ひとつの色を置いた後に次の色を選んでいくことが多いです。特に抽象的な絵を描き始めてから強く感じますが、色って様々な距離がありますよね。マットな緑は奥に沈みますし、蛍光色のような鮮やかな色彩はポッと浮かび上がるように眼前に現れます。メタリックな色合いは光を反射しやすいからか独特の奥行きがあるように感じますし…そんな色を使って絵を作りあげたいと試行錯誤しています。
そういえば、中村先生に指導していただいた際に「色に救われることってあるよね」と言われたことがあるのですが、全くもってその通りだなと思います。色だけで絵は出来ないですが、色によって自分が作りたいものに近付いていくことが出来ると考えています。

—- 清水さん独特の色がもつ距離感…とても興味深いです。美術用語のいわゆる「色価(ヴァルール)」とはちょっと違うように私などは感じます。「色に救われる」という中村一美さんのおことばも示唆に富んでいますね。それだけ色彩と画面との関係を強く意識しているということなのですね。
キャンバスを前にして、色≒絵具や、それらがつくりだすかたちと対話を繰り返しながら、作品ができあがっていくさまを創造すると、清水さんご自身が見知らぬ世界に分け入っていくような、そんな妄想をしてしまいます。なぜかというと、清水さんの作品は、奥行きのある壮大な空間を感じさせることがとても多いので、未知の、我々が体験したことのないような世界を、私などは想像するからなのです。
そんな感想を、作品をごらんになった方から聞いたことはありますか? また、そんな感想を聞いて、ご自身はどのように感じていらっしゃるのでしょう?

清水 伊藤さんに仰っていただいたような感想を伝えていただくことは度々あります。特に大きな作品は、私自身が空間性を強く意識しているためか、そう言っていただくことが多いような気がします。もともとニューマンやロスコなどの抽象表現主義の作品が好きなので、絵を目の前にした時の身体的な感覚に興味があるのだと思います。勿論そこを目指している訳ではないのですが、オールオーバーやイリュージョン…さまざまな奥行きや距離感を許容しながら絵を考えたいと思っています。


新作《咲く明かり》について

—- そういえば、今回展示してくださった作品のなかで、《咲く明かり》(2022年)は、他のものと少し印象が違うように、私などは思います。キャンバスの縁の塗り重ねがマーク・ロスコの作品を彷彿とさせたり、かたちもエッジが立っているというよりは少し柔らかく感じたり…そう、清水さんの作品から私が感じていたクールでソリッドな感覚から、もっとソフトで、どちらかというと空気感のようなものを感じさせるような、そんな印象を私などは持っています。ご自身ではどんなふうにこの作品を捉えていらっしゃいますか?

《咲く明かり》 2022年

清水 仰る通り、柔らかさや浮き上がるような感覚を追ってみたいと思い描いた作品です。それが空気感に繋がっているのかもしれませんね。
自分としてはこの作品も空間を重視して描いているのですが、線的な要素よりも面や層を重ねて緩やかな空間を作ったのは確かです。このようなタイプの絵を描くことはあるのですが、身体と同じくらい大きな作品は今回初めて描いたので、自分の中でもまだ消化しきれていないところがあります。

—- 初めての挑戦、課題も手応えも、それぞれに感じていらっしゃるのですね。私はこの作品をみて、清水さんの制作がより豊かに、厚みを増したように感じました。これからの展開がとても楽しみです!
では最後に、ご自身の今後の制作に関して、展望や、目指してみたいこと、実現したいことなどがあれば、教えてください。

清水 地味な話になりますが、とにかく描いて考えて…を繰り返して、今回描いたような柔らかな作品やドローイング類も含め、絵をより強くしていきたいですね。自分の中では様々な課題があるので、制作を淡々と続けていくことで新たな展開に繋げていけたらと思います。


《渦流》2022年

《薄明》2022年

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まるで万華鏡のようだ。
清水の作品にはじめて出会った頃、そんな感想を抱いたことを憶えている。
画面にゆらめくかたちと色は、一瞬たりとも静止せず、私の視覚を揺さぶった。画面の中に広大な空間を感じるものもあれば、平面的・意匠的な印象が強いものもあるが、どれも大胆なストロークと鮮やかな色彩がめくるめく躍動し、私は作品との新鮮な対話を楽しんだ。
その後何度か作家自身と会い、話をうかがう機会を得たが、いつも作家は「いやあ、まだまだ…」と首をひねりながら苦笑する。最近の若い作家は謙虚な人が多い印象だが、快活で笑顔の絶えない清水の場合は、その人柄もあいまって、特に自作の評価に対して控えめに思えるのだ。自信満々で筆のストロークを重ねる作家のすがたを、私が勝手に想像しているせいかも知れない。
もちろん、清水はある確信をもって、迷うことなく自身の制作を追究し続けている。ただその確信は、歴史上絵画に求められてきた「強さ」とは違うところに向けられているようだ。私が妄想するに、作家の向く先にあるのは、わたしたちの視覚を揺さぶってやまない、形態と色彩の両方に関わる、ずれやゆらぎ、傾き、すなわち「不安定」という要素ではないか。

抽象形態を効果的に用い、すぐれて「不安定」な絵画表現を成した画家は多い。《水》(1941年)にみられるような菱形によって、静謐かつ不穏な風景を描出した山口薫(やまぐち・かおる 1907-1968)や、傾き重なりあう「きっこう」(六角形)で画面を揺り動かした杉全直(すぎまた・ただし 1914-1994)はその好例といえる。彼らは頼りなく危なっかしい形態によって、観る者を画面の内側へと強く惹きつけた。
清水の作品も、ゆらゆらと浮遊し、すうっと画面の端まで視線をさそう糸口を画面のそこかしこに準備して、観る者の視覚を捉える。ぎゅうと掴まえるのではない。なだらかな斜面を流れる水のように、わたしたちをさそうのだ。その先には、万華鏡のような、ひとつ処にとどまらない視覚の法悦がある。
ことさらに強く、盤石である必要はない。絵画のなかにひらかれた対話の窓は、作家それぞれのありようで、その向こうの広がりを示すことができれば、それでよい。さまざまな作家や教師との出会いによって、そのことに確信をもっている清水の制作は、これからもめくるめく変化をとげて、わたしたちの眼前で輝きを放つだろう。

伊藤佳之

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《water drawing 2022 (Fukuzawa Ichiro Memorial Museum) 》1, 2 2022年

【展覧会】「PROJECT dnF+」山内隆「巡礼。2014−2022」2022.9-10

10月1日(土)20:30より、作家によるオンライントーク「巡礼。ぼくが見てきたもの」を開催します。詳しくは →こちら

福沢一郎記念館では、2014年から継続している「福沢一郎賞」歴代受賞者の方々のための企画「PROJECT dnF」を拡張する試みとして、「PROJECT dnF+」をはじめます。
これは、福沢一郎にゆかりのある方、福沢の制作とひびきあう独自の試みをおこなっている方など、当館で意義ある展覧会を開催してくださる方に、当館を展覧会場としてご提供するものです。
今回は、山内隆(女子美術大学教授)が、「巡礼」をテーマに展覧会をおこないます。

近年、巡礼路を辿ることを制作の糧としてきた山内は、昨年福沢一郎著の画文集『秩父山塊』(1944年)に強い関心を示し、それがこの展覧会の種となりました。彼は秩父の山々を注意深く観察し、そこに生きる人々の様子とともに淡々と描きとめた福沢のすがたを、自らの歩みと重ね合わせたのだといいます。
自身の歩みによって過去と現在を結び交感する制作の断片は、福沢一郎のアトリエでどのような景色を切り拓くのでしょうか。


《あるたてもの/出津/長崎》2022年 木材・塗料 h134.4×w64×d46cm

—– 2013年、ポーランドの強制収容所を訪れて以来、絶対的な死の現場に立つ機会を多く持つこととなった。なかでも長崎外海および五島列島の教会群とその周辺の営みに対し、人間が持つ表現に向けた根源的な欲求の部分に深く感じ入り、場を描き留めなければならない特殊な衝動を得た。以後、国内のカトリック教会をめぐる旅を重ね、その旅はスペインの巡礼路の踏破に至り(フランス人の道、ポルトガルの道)、現在「北の道」の踏破を継続中である。長崎のスケッチは発表を前提とせずノートの表裏に描き、スペインの巡礼路では荷物の軽量化のため最低限の色鉛筆と紙に描きとめていった。これらの有るき描きことに没入した、真空のような期間を過ごすことで、あらためて自分の制作の根源が「祈りや奉拝」であることを確信した。

山内隆

山内 隆(やまうち・たかし)

1968 岐阜県生まれ
1993 東京藝術大学 大学院美術研究科 壁画専攻 修士課程 修了
1996 東京藝術大学 大学院美術研究科 油画専攻 満期退学
1996-1999 東京藝術大学 助手
1999 – 現職
2017-2018 ウィーン応用美術大学 Institute of Fine Arts & Media Art Sculpture and Space 研究生

最近の主な個展歴
〈個展〉
2022.6 「山内隆展 巡礼。何処/其所」(iGallery DC 山梨、笛吹市)
2022.3 「山内隆展 巡礼。そらより」(ギャラリー広田美術 東京、銀座)
2018.1 研究発表展示 Wien / Sculpture and Space / exhibition room
2017.11 Unter Sternen Germany / Solingen
2017.9 Takashi Yamauchi Open Studio – Point – JOSHIBI Residency ( Kunstraum Kreuzberg / Bethanien )



◎展覧会 会期:
2022年9月29日(木)-10月15日(土) の 木・金・土曜日開館
13:00 – 17:00  観覧無料

◎イベントのお知らせ
オンライントーク「巡礼。ぼくが見てきたもの」

2022年10月1日(土) 20:30〜 22:00(予定)
オンライン会議システム「Zoom」を使用 参加無料

◇ 作家が近年取り組んでいる「巡礼の路」をたどる旅、そこで得たもの、感じたこと、そしてそこからつながる近年の制作活動について、画像をまじえて語ります。
◇ 参加ご希望の方はこちらのリンク または以下のQRコードから、参加申込フォームにお進みいただき、必要事項にご記入のうえ送信してください。
◇ 定員を大幅に超過した場合、受付を終了いたします。あらかじめご了承ください。


【展覧会】PROJECT dnF 第7回 中里葵「Repetition」アーティストコメント

中里葵 アーティストコメント … 往復メールから

2019年11月〜12月
ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


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中里葵(なかざと・あおい)
1993年、埼玉県生まれ。2016年、女子美術大学洋画専攻卒業、女子美術大学美術館賞、加藤成之記念賞。2018年、女子美術大学大学院版画領域専攻修了(福沢一郎賞)。
主なグループ展・公募展出品歴: 「第6回山本鼎版画大賞展」(入選)上田市立美術館(2015年)/「EXIST Vol.11」JINEN GALLERY、「街の構図展」フリュウ・ギャラリー、「第52回神奈川県美術展」(横浜/かながわ賞)、「第5回FEI PRINT AWARD」入選 「第84回日本版画協会版画展」入選(賞候補)、「DAWN OF YOUTH」Kato Art Duo(シンガポール)、「ブレラ国立美術学院・女子美術大学交流作品展」(以上2016年)/「PICK UP THE PIECIES 2017」JINEN GALLERY、「スクエア ザ・ダブルVol.11」フリュウ・ギャラリー、「日本版画協会第84回版画展 画廊選抜展」養清堂画廊(以上2017年)
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初の個展/制作について(1)

—- 今回、当館での展示が初の個展だそうですね。展示してみて、率直な感想をお聞かせください。

中里 初めての個展を福沢一郎記念館でさせていただけたことにとても感謝しております。
最初は自分の作品だけで空間が埋められるのか不安でしたが、伊藤さんや記念館の皆様のおかげでなんとか展示することができ、ほっとしています。

—- 今回の出品作のほとんどが、中里さんの制作の重要なモティーフである「団地」で占められていますね。特に福沢のアトリエ内、象徴的な青森ヒバの壁に、大作が並んだのは壮観でした。これらの作品はいずれも90cm角くらいの正方形ですが、この寸法と比率にしているのは何か訳があるんでしょうか?

中里 この寸法と比率にしている訳は、お恥ずかしながら深い意味は何もありません…。
単純に既製品の版木とパネルのサイズが合ったので、このサイズ感になりました。
びっくりするくらい単純な理由で申し訳ないです。

—- いえ、大丈夫です(笑)。ただ正方形というプロポーションが、中里さんの制作テーマのひとつである「画一化する風景」を表現するに、なかなか効果的に働いているなあと思ったのです(図1)。意図せずそういう結果になったのは面白いですね。展示の工夫のしがいもありますし。今回も、縦にも横にも繋げられる…なんなら少しずらして…など、アレンジの可能性が多くて驚きました。こうした展示方法は今までも色々試して来られたのでしょうか?



図1 《画一化する風景9》 2017年 水性木版・紙 91.0×91.0cm

中里 自分でも正方形という形に助けられているな、と感じる時はよくあります。
展示方法は、修了制作として展示する時は4枚のパネルを連結して大きな正方形にしたり、階段のような形にしたこともありました。
少しずらして縦に連結するというのは今回の展示が初めてで、ずっとやってみたいと思っていたので実現できてよかったです。
今までのグループ展では他の作家さんとの兼ね合いもあったので、今回の個展で自分の頭の中にあったことをとことん出来たのはとても幸せなことでした。




画一化する風景

—- 当館の展示が新たな試みの場になったなら、何よりです。
  それにしても、団地の建物を真っ正面から捉えると、こんなに面白い表現になるのかと、最初拝見したときは驚きました。団地をモチーフとした制作は、いつ頃から、どんなきっかけで始められたのでしょう?

中里 団地を作品にし始めたのは大学4年の頃です。
大学3年の頃から自分の興味のあるものや好きなものだけを作品にするのではなく、もっと広く社会に目を向けて作品を作ろう、と指導を受けてきました。
その中で私は自分の生まれ育った「郊外」という場所に着目して作品を制作できないかと模索していました。
ショッピングモールやファミレスなど、全国どこに行っても同じものが手に入るというのはとても便利でありがたいことですが、同時に地域と人々の個性が無くなるような、そんな違和感も抱いていました。
その「違和感」をどのように作品にしようかと考えていたら、帰りのバスの中からたまたま団地の窓の明かりが見えて、これを作品にしよう、と思い立ちました。



—- その最初の作品が、今回出品なさった《standardization》(2016年)ですね(図2)。同じようなかたちをした団地のベランダが並んでいますが、窓の明かりの違いが、そこに住む人たちの存在、つまり個性をじわりと感じさせるような作品です。やはり思い入れの強い作品なのでしょうね。



図2 展示風景 右の作品が《standardization》 2016年 水性木版・紙 61.6×91.5cm

中里 最初の作品はもう世間に出すことはないだろうと思っていたのですが、せっかく福沢一郎記念館で個展の機会をいただけたのでシリーズのきっかけとなった作品も展示してみるか、と思って引っ張り出してきました。
この時は団地という規格化された中の個性みたいなものを描いていましたが、そこからどんどん画一的、無個性などをキーワードに制作していきました。

—- おっしゃるとおり、最近作はその無個性、画一化というテーマが、ますます研ぎ澄まされてきていますね。《画一化する風景23》(2018年)などは、もう抽象画のようです。しかもモノクロのとてもストイックな造形ですね(図3)。

中里 画一化、無個性ということを主張する時に別に団地である必要もないのかなと思い、抽象画のようになりました。
抽象画のようになったからこそ、パネルを連結して正方形や長方形、階段式など様々な形で遊ぶような展示ができるようになったのかもしれません。



図3 《画一化する風景》 2018年 水性木版・紙 各91.0×91.0cm(2点組での展示)



制作について(2)

—- なるほど。意味を削ぎ落としていった結果、このようなシンプルな造形に至ったというわけですね。でも、とてもかっちりしている印象があるいっぽうで、木版独得の柔らかさや、刷りのあじわいがあって、ある意味ミスマッチといいますか…。まあ、こういうテーマ・造形を、他の技法で…例えばシルクスクリーンなどでやろうとすると、かなり印象が変わってくるでしょうね。やはり木版にこだわって制作なさっているのでしょうか? そうだとすれば、その理由はどんなところにあるでしょう?

中里 木版にこだわっている理由というのは特にないのですが、ただ単純に木版の素材が私の肌に合っていたのかもしれません。
私はひたすら同じ形を彫っているのですが、その行為の繰り返しが「無」になれるといいますか、自分にとっては大切な時間なのかもしれません。

—- 中里さんが、本格的に木版画の制作をしようと思い立ったきっかけは、どんなものだったのでしょうか。

中里 本格的に木版画の制作をしようと思ったのは、銅版やリトグラフなど色々な版種を体験して木版はもう一度やったら次はもう少し上手くできるかもしれない、と思ったからです。
私は水性木版なので試しやちょっとした実験みたいなことがしやすかったというのもきっかけかもしれません。

—- 団地の制作に至るまでには、どんなモティーフを扱ってこられたのでしょう?

中里 団地の制作に至るまでは 全国どこに行っても同じ商品が手に入るという部分に興味があって、先ほど例に挙げた ファミレスやコンビニ、ショッピングモールなどをモチーフにしていました。
これらのモチーフは1枚の絵で画一化や無個性といったことを主張するのが難しく、またシリーズとして制作したいな、と思っています。


これからの制作

—- 今挙げていただいた、ファミレスやコンビニなどのほかに、無個性や画一化というテーマをもって取り組んでみたいモティーフはありますか? あるいは、無個性・画一化というテーマ以外に、何か取り組んでみたいテーマはあるでしょうか?

中里 今興味があるモティーフは高速道路やパーキングエリアなどです。高速道路はずっと同じ道で左右が高い壁で囲われていて今どこに自分がいるのか分からなくなる感覚があります。 そのようなところから地域性が無くなるとか、画一化みたいなことを言えたらと思っています。
また、無個性・画一化というテーマと並行して版画の特質である複数性とか間接性などそういった版画の機能についてじっくり考えて作品にも取り込んでいきたいと思っています。



—- 「無個性・画一化」と「複数性・間接性」とが綿密に織り込まれたとき、どんな作品ができるのか楽しみです。
 ちょっと話題は変わりますが、無個性・画一化という問題は、産業革命による大量生産に端を発する規格化、公的教育の普及、マスコミュニケーションの発達、そしてデジタル化社会というふうに、近代から現代へとつづく人間をとりまく環境を語るとき欠かせないことであるように思います。
 中里さんはこうしたテーマを意識的に取り上げて作品に反映させているので、社会的課題としての無個性・画一化に対し、どんな考え、思いをもっているのか、ぜひ教えてください。

中里 社会的課題としての「無個性・画一化」に対して私自身は肯定でも否定的な立場でもありません。
きっと時代が変化していく上で無個性・画一化というのは必然だったのだと思います。
でも物事には何でも良い面と悪い面があるように、無個性・画一化によって失われるものもあると思います。
自分が制作したもので「無個性・画一化」について何かを考えてくれる人がいてくれたら…と思っています。






訥々と、じっくり言葉を選びながら語る作家のことばの印象は、対面して話すときも、往復メールでの対話のときも、ほとんど変わらない。何事にも誠実に向き合う作家の個性がそのまま、ことばにもあらわれているようだ。
制作にもその人間性がそのまま反映…などと簡単に言ってしまうのはもったいない。確かに制作への地道で誠実な取り組みのうえに、あのおびただしい数の扉やベランダが並ぶ鮮烈でソリッドな魅力をもった作品が成り立っていることは間違いない。しかしただ誠実を貫くだけでは、団地のファサードというモティーフと、制作のテーマ、そして制作技法をここまで強力に結びつけることはできないだろう。
「画一化する風景」というテーマで制作を続けてきた作家が今回選んだ個展タイトルは「Repetition(反復)」。同じことを繰り返すだけなら、それは画一化された所作そのものといえる。しかしある所作とそれによって生まれたナニモノかは、反復すればするほど、次第にずれ、ありようを変えていくものだ。反復とは差異のはじまりでもある。作家が用いる水性木版という技法じたい、そうした宿命を負っている。同質・同型のイメージを複製する技術としての版画でありながら、差異を孕むことを余儀なくされているのだ。
画面のなかでずらずらと並ぶ団地のベランダは、画一化されたかたちを保持しつつ、水性木版特有の刷りムラや濃淡によって画一化・パターン化に抵抗し、われわれの眼前に広がる風景が決してひととおりではないと主張する。均質化と個のゆらぎを内包し、じりじりと発熱する。そんなところが中里の制作の魅力と私は考えている。作家はこのテーマについて強く主張することはない。ただ眼前のありようを、自分らしく誠実にあらわしているだけなのだろう。しかしそれだけに、二律背反する社会の事象への批判的な精神が、実は作家の奥底で、じりじりと発熱しているのではないか。そんな妄想を私などはかき立てられてしまう。
作家自身も気付いていない熱量が、埋み火のように作品のむこうで息づく。それがいつか、大きな炎のように燃えさかる日が来るかもしれない。(伊藤佳之)


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※この記事は、展覧会終了後、ききてと作家との間で交わされた往復メールを編集し、再構成したものです。
※ 図番号のない画像は、すべて会場風景および外観