【展覧会】PROJECT dnF 第9回  川端薫「その日を摘む」アーティストコメント

川端薫 アーティストコメント … 往復メールから

2021年11月〜12月
ききて:伊藤佳之(福沢一郎記念館非常勤嘱託(学芸員))


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川端薫(かわばた・かおる)
1990年 福井県出身 2016年 女子美術大学大学院洋画研究領域 修了(福沢一郎賞)
主な個展・グループ展: 2018年 「川端薫 展 -ミクロコスモス- 」JINEN GALLERY(小伝馬町) / 2019年 「川端薫 展 -GARDEN- 」JINEN GALLERY / 「山口茉莉 / 川端薫 展」JINEN GALLERY 2020年 「川端薫 展 -透明な温室-」JINEN GALLERY / 「それぞれの景の色」Gallery FACE TO FACE(西荻窪) / 「One Man Show + plus」Gallery FACE TO FACE 2021年 「川端薫 展 -或る惑星の細胞-」JINEN GALLERY / 「The PLANTS」アートコンプレックスセンター(四谷) / 「5つのいきものがたり」Gallery FACE TO FACE
主な受賞歴: 2016年 福沢一郎賞 / 「床の間アートコンペ」 (佐賀・古湯温泉ONCRI)優秀賞
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制作について … 展覧会パンフレットより
「生命体とは自己複製する術をもつものである」という定義をもとに、制作を自己複製、作品を生命体と捉えている。その形は記憶の中にある物事のイメージを複数組み合わせることで作っている。木彫を支持体とし、油絵具で彩色する手法を用いることが多いが、作りたい形に合わせて材料や手法を選んでいる。 こうして自らの制作を振り返ってみると、私は「持ち合わせている知識と技術を使って何ができるのかを実験している」のだと思う。繰り返される実験の果てに完成する生命体はどんな形をしているだろうか。会えるその日を楽しみに待つ。


展示風景

タイトル「その日を摘む」について

—- 本来ならば昨年(2020年)の秋、記念館で個展をしていただく予定でした。一年越しに実現しましたね。実際に福沢一郎のアトリエで作品を展示してみて、いかがですか。率直な感想をお聞かせください。

川端 率直に嬉しかったです。学生のときに初めて訪れたのですが、そのときに「素敵な場所だな。いつか私も展示してみたいな」と思っていました。
一年越しの開催については、結果的によかったと思ってます。展示のお話をいただいた当時は過去作の粗が許せず、やるなら全部新作だと息巻いていましたが、期間が空いたことで過去のもそんなに悪くないじゃないと思えるようになりました。

—- 過去作から新作まで集めていただいたことは、結果的に川端さんの作品が醸す世界を、より広く深く紹介することにつながったのではないかしら、と私などは思っています。このことについてはのちほど…。
さて、今回の展覧会タイトルは、「その日を摘む」ですね。このタイトルが示すのはどんなことでしょう?

川端 展覧会のタイトルをどうしようかと悩んでいるときにたまたま「カルペ・ディエム」という言葉を知り、これにしようと思いました。
よく知られている「メメント・モリ」と関連する言葉で、日本語訳すると「その日を摘め」。一日一日を大切に生きろといった意味です。『今この時』という感じが私のスタンスに合っているように思いました。日を摘むという表現も素敵です。
ただ、命令形には違和感があったので「摘め」から「摘む」にしました。あくまで自分の行動としての表現にしたかったんだと思います。

—- なるほど、《死を想え》と関連する言葉でしたか。川端さんの作品は、どれも生き物を創造させるものですから、生があって死がある、ゆえに一瞬を生きているのだと自覚する、そんな作品たちのいきざまのようなものにも思えてきます。ただ、そんなにがつがつと暑苦しく生きるのではなく、どの作品も主張しすぎずに、じつにマイペースに生きているように、私などは感じてしまいます。「摘む」という表現も、作品の様態によく合うように感じます。
展覧会のパンフレットに掲載させていただいたステートメントには「『生命体とは自己複製する術をもつものである』という定義をもとに、制作を自己複製、作品を生命体と捉えている。 」とあります。つまり作品は自身のDNAから生み出されたような、いわば分身のようなものであると、そんなふうにお考えなのでしょうか。先程述べた作品たちの「いきざま」と川端さんのそれが、なんだかとても近しいもののように感じてしまったもので…。

川端 そうですね、作品は自分の分身みたいなものだと考えています。そのステートメントの文は修了制作のときに書いた文章の冒頭とほぼ同じ内容です。『自己複製』という言葉は福岡伸一さんの著書「生物と無生物のあいだ」を読んで初めて知りました。修了時の文章を書く際にかなり影響を受けています。
当時、私はぼんやりと生命体を制作のテーマに置きつつも、その定義についてはあまり考えたことがありませんでした。
生命体のような作品があって、その作者である私が生命体であることは間違いない。だとすれば制作という行為は自己複製にあたるのでは?…という風に紐付けしていったんですね。
なので、作品と私の「いきざま」が近しいというのはおそらくその通りなのだと思います。


《hands》(2016年)

作品について…《hands》

—- では、それぞれの出品作についてもお話うかがっていきたいと思います。ギャラリーの中央に置かれた《hands》(2016年)は、ご来館のみなさまにとても人気があったように思います。その丸みを帯びたかたちに、触りたい!とおっしゃる方もたくさんいらっしゃいましたね。この作品を出品しようと考えた理由、そしてこの作品への思い入れなど教えてください。

川端 《hands》は元々、修了制作のうちのひとつでした。(修了制作は複数の立体作品を設置した場をひとつの作品としました。)
先にも述べたように、最初は過去作を出品しようとは思っていなかったのですが、展示までの期間が空いたことで考えが変わってきました。単に少し歳を重ねたことで性格が丸くなったのか、コロナ禍の影響なのかは分かりませんが、過去のものに対しての心持ちが穏やかになったのは確かです。
この作品には明確なモデルがいます。熊童子という名の多肉植物です。本当にこんな感じの、丸く膨らみ、爪のような突起がある形の葉を持っています。元々がそういうかわいい形なので、ご来館の方々にも親しみやすかったのかもしれません。そして膝くらいの背丈なので触りたいと感じられたのかもしれません。実際に作者自身が時折なでていました。たぶん結構気に入っているのです。しかしいざ展示してみるとやはり粗いなぁと思いました…。

—- 私などは、《hands》の葉のような手のようなかたちの付け根、上から見ると真ん中の凹んでいるところが、いつ見ても光っているように感じられて…いえ、目の錯覚なのだと思いますが…いつもそこを覗き込んでいました(笑)。ノミの跡、作家の手が中心に向かって進んでいく軌跡というか、そんなものが感じられたからかもしれないと思っています。
この作品は樟の一木造ですよね。この作品のような大きな木の塊に取り組んだのは、このときが初めてだったのでしょうか?

川端 真ん中の凹部はノミ跡が粗いため、光が当たるといい感じに反射してくれたのかもしれません。記念館には高いところに北窓があり、柔らかい自然光が入ってくるので、そのおかげかなと思いますが、光っているように感じられたと言っていただけるとなんだか嬉しい気持ちです。
木彫がある程度の大きさになり始めたのは学部4年の前半あたりです。それ以降大きめの作品をぽつぽつと作っています。《hands》を制作したのは大学院2年のときなので、木を彫るのに少しずつ慣れてきた頃です。

—- なるほど。木との付き合い方がわかってきた頃、それが修了制作の頃だったというわけですね。


木や粘土、針金などを駆使して作られた小品の数々 左から《Lamproderma triceratops》, 《Entacmeae hydrangea》, 《Terradens floris》, 《Palythoa staticia (yellow)》, 《Palythoa staticia (pink)》, 《Palythoa staticia (purple)》

さまざまな素材による制作/「絵じゃなくてもいいんだ」

—- ただ、その後は木に限らず、さまざまな素材を使って制作を展開なさってらっしゃいますよね。針金とか樹脂とか糸とか…。以前個展にうかがった際…確か2018年だったと記憶しますが…その時もじつに多彩な素材を駆使して、いきもののかたちを生み出してらっしゃるのがとても印象的でした。
あるかたちを作り出すために、さまざまな素材や技法を駆使して制作する、つまり特定の素材や技法への強いこだわりがないのが、川端さんの造形の特徴だと思うのですが、以前からずっとそうだったのでしょうか? 例えば修了制作の以前と以後など、素材や技法への考え、こだわりが変わったことはあったのでしょうか?

川端 洋画専攻にいながら木彫を始めた時点で表現手法へのこだわりは薄かったのかもしれません。「べつに絵じゃなくてもいいんだ」と思ったのを覚えています。
それからは色々な素材や技法を使い始めました。技法ありきで何を制作するかを考えるよりも、何を作りたいかによって技法を変えるほうが制作の幅が増えると考えるようになったんです。気になる材料を試してみたり、大学院のときは他の専攻の授業にお邪魔したりして学びました。修了制作でもすでにいくつかの木彫に樹脂粘土や針金で作ったパーツを使っています。

—- 今は洋画専攻でも、映像とかガラスとかパフォーマンスとか、さまざまな表現で制作する人がたくさんいらっしゃいますよね。でも、みなさんはじめは絵を描いていたという人が多いようで…。川端さんが『べつに絵でなくてもいい』と思えた、そのきっかけはどんなことでしたか?

川端 きっかけは大学3年のときの木彫の授業です。
入学当初はもちろん絵を描いていくつもりでした。洋画専攻を選択した人のほとんどはそうだと思います。最初のうちは人物や静物など、何か描く対象物があってそれを描いていれば良かったのですが、次第に自分自身の制作テーマを持たなければならなくなってきます。
当時の私は何を描きたいのか分かりませんでした。絵画の歴史を知るほど、新しい表現はすでに試し尽くされているように思えました。絵を描くのが好きだったはずなのに、楽しくなくなってしまった。
そんな折に、少人数ゼミでの木彫の授業があるとのことで応募してみたという訳です。いざやってみたらものすごく楽しかったんですね。そして少し自分のテーマが見えた気がしました。
このような流れで「絵じゃなくてもいいんだ」と思うに至りました。

—- そこから、制作を『自己複製』と捉えるような現在のテーマ・コンセプトにつながっていくと…。面白いですね。


《Platycerium teneros ‘Living Trophy’》2021年

新作について

—- さて、ここで新作《Platycerium teneros ‘Living Trophy’》についてお話うかがいたいと思います。福沢のアトリエの一番大きな壁にどん!と据えていただきましたね。これは来館者のみなさまから質問の多かった作品のひとつでもあります。タイトルの「Living Trophy」とはいったいどんな意味を持っているのですか?」

川端 ハンティング・トロフィー(hunting trophy)というものがあります。狩りで捕まえた鹿などを剥製にして壁に飾れるようにしたものです。
この作品のモデルはビカクシダという植物です。この植物は板に付けることができ、壁にかけたり吊るしたりして育てることができます。まさにハンティング・トロフィーのようにして飾っている方もいらっしゃいます。
そういうわけでこのような形になったのですが、私の作品は生命体ということになっているので、ハンティングの部分を変えて「Living Trophy」としました。
そうして出来た名前から考えると、ハンティング・トロフィーが狩りの腕前を讃えるものであるとすれば、リビング・トロフィーは生きていることを讃えるものになるのかなと思います。

《Musa megalopiscis ‘skin rug’》 2021年

—- もうひとつの新作、《Musa megalopiscis ‘skin rug’》も、質問の多かった作品でした。学名らしき言葉に「skin rug」という二つ名がついています。「敷皮」もハンティングの成果を示すものですよね。でもやはり《Platycerium teneros ‘Living Trophy’》の場合と同じく、いきもののありようを色々想像させる作品だと思います。

川端 新作のふたつは記念館での展示に向けて制作したものでした。記念館はもともとはアトリエですが、居住空間に近い空気を持っていると思うので、どちらもインテリアにまつわる作品になったのは自然なことだったのかもしれません。
また、どちらも動物の亡骸を連想させるものになりました。(このへんはメメント・モリ的な感じかもしれません。)私は最近、植物のような形の作品を作ることが多いのですが、少し前は主に骨とか臓器とか、動物の身体の一部から発想を得て制作していました。後になって思い出したことですが、ハンティング・トロフィーのような作品を作ろうと考えていたこともありました。原点回帰というわけでもないですが、以前の要素が少し出てきているのかもしれません。


これからの制作について

—- 結果的に、今回の個展は、川端さんご自身にとっても、制作の来し方を考える契機になった、といえるかもしれませんね。

川端 私もなんとなくそう思います。今回の会期が終わったときに寂しいと思ったんです。いつもなら展示が終わると達成感があると言いますか、「終わったー!」みたいなすっきりとした気持ちになるのですが、今回は「あぁ、終わってしまったなぁ…」という感じでした。
この展覧会は自分の中で過渡期にあたるかもしれない、大事なものだったと思います。この場を借りてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

—- いえいえ、こちらこそありがとうございます。私は今後のご活躍がとても楽しみです! さて、今回の個展を終えて、何かみえてきたこと、さらに挑戦してみたいことなどあれば、ぜひ教えてください。

川端 今後については、全く面白くない回答で申し訳ないのですが…今までどおりの制作方針でやっていけたらと思います。いつものように興味のあるものを取り入れつつ新しいことができないか模索していくつもりです。常に変わっていくことを維持していきたいです。


《Osmantus gigas》2019年

展示風景

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川端が展覧会のタイトルに選んだ「その日を摘む」は、古代ローマの詩人ホラティウスによる『カルミナ(Carmina: 頌歌)』第1巻第11歌の最後にあらわれる有名な一節からとられたものである。

carpe diem quam minimum credula postero.
… その日(いま)を摘め、明日(未来)はなるべく信用せずに。

対照的に扱われることの多い「メメント・モリ(memento mori : 死を想え/忘れるな)」は、西欧キリスト教社会における禁欲と懺悔による謙虚さや慎ましさに裏打ちされたことばとなって今に伝わるが(もともとは古代ローマ軍の凱旋式にまつわることばのようだ)、「カルペ・ディエム」は、明日どうなるか判らぬ我が身を案じるのではなく、その日ごと楽しく過ごすよう促すことばとして人口に膾炙する。ただ、享楽的かつ刹那的な生きざまを煽るものではないようだ。戦乱続く古代ローマ帝国で、実際に戦にも赴いたことのあるホラティウスが、さまざまな苦難を経てあるいま、すなわち人生を肯定的に生きようと歌いあげた詩句であるらしい。
川端は「カルペ・ディエム」から命令形を取り去り、一人称のつぶやきのように「その日を摘む」と綴った。「摘む」はささやかに恵みを受け取る「私」の謙虚な所作を想起させる。ここで想定される「私」とは、むろん造形作家としての川端自身であり、また形をなしてこの世にうまれた作品たちであるともいえるだろう。
動物なのか植物なのか判然としない、謎のいきもの。いやむしろ動/植物へと分かれる以前の原始的な生命体−−例えば菌類のような−−を思わせるものが、川端の作品には多い。派手にアピールしたり突然襲いかかって来たりはしない。しかしその内には、確かに生命がさざめいている。そんな印象を受けるものばかりだ。そしてそれらは、木や紙、針金、樹脂などさまざまな素材によって形作られている。私などは、手練手管を尽くして進化の筋道をさぐろうと生を模索する、かれらのありようを妄想してしまう。
川端の個展のため『福沢一郎記念館ニュース』に山内隆さん(女子美術大学教授)がお寄せくださった文章には、学生時代の川端の制作に関する、興味深いエピソードが含まれている。大学3年の時、川端は木彫の課題で心臓を、さらには喉仏を掘り出したという。特に前者は、彫り進めるうち樟の内部の湿りけを感じ、素材となる以前の木の生命を感じたそうだ。動物の生命の象徴ともいうべき心臓を彫りながら、香気とともにたちのぼる植物のかつての息吹にふれるという体験は、やはり作家にとって制作の方向を確かめる大きな道標となっただろうと想像する。
いま作家は「持ち合わせている知識と技術を使って何ができるのかを実験」しながら、生命のかたちを追い求めているという。そのきっかけは生物の学名や未知の素材との出会いであったり、ふと自分の内に沸き起こる形態への興味であったりと、さまざまだ。日々外的・内的変化に晒されながら進化をつづける生命は、川端の場合、無限の可能性を秘めた未分化の状態がふさわしい。制作を「自己複製」であると定義する作家とその作品は、やや逆説的であるかもしれないが、これからも未分化の状態を保ったまま進化し続けるのだろう。

コロナ禍のもとで苦労の多かった今回の展覧会は、予想に反して多くの来館者があり、皆さんは川端の作品との対話、そして作家との対話も存分に楽しんだ。福沢一郎のアトリエに、まるでずっと昔から在ったかのようなふりをして居座った作品たちに、多くの来館者が親しみを感じ、時間と空間を共有することに言いしれぬ居心地の良さを感じたそうだ(むろん私もそのひとりだが)。
未分化である≒ナニモノか判然としないからこそ、川端の作品とともに「いま・ここに在る」楽しさ、居心地のよさは醸し出されるのかもしれない。私たちの内でさまざまに変異を遂げ、謎めいた解釈となって脳内に棲み着いてしまう。そんなかれらのしたたかささえ、私などは妄想してしまう。
日々の恵みをささやかに摘み取りながらささやかに変貌してゆく、川端の制作とその作品のありようを、これからも追い続けてみたい。(伊藤佳之)


【イベント案内】夜のおしゃべり鑑賞会オンライン 10/29(金)20:30-21:30

《Osmantus gigas》 2019年 糸、粘土、水彩絵具 他 縦590×横500mm         

現在開催中の展覧会「川端薫 その日を摘む」に展示中の作品(の画像)をみながら、みなさんで気軽に、自由におしゃべりしてみましょう。
予備知識はいりません! 正しい「みかた」もありません! 
「対話型鑑賞」で作品を語るみなさんのことばが、新しい作品のみかた、楽しみかたをつくります。ぜひお気軽にご参加ください!

◎開催日時:2021年10月29日(金)20:30-21:30

プログラムは以下のとおりです。(約60分/時間は変動する場合があります)
20:30 ごあいさつ、記念館と展覧会のご紹介(10分)
20:40 作品鑑賞とおしゃべり(30分)
まずはじめに、少しの時間、1点の作品(画像)をじっくり、ゆっくりとみてみましょう。
※ どの作品をみるかは、当日までナイショです。
そのあと、感じたこと、気になったこと、発見したことなどなど、いろいろお話してみましょう。
ファシリテーター(進行役)が、みなさんのおしゃべりのお手伝いをいたします。
21:10 作家とおしゃべり、質問タイム(20分)
展示作家の川端薫さんが登場! 作品の感想、鑑賞そのものの感想、作家への疑問質問など
21:30 イベント終了 おつかれさまでした!

参加は無料です!

◎参加方法と申込方法は以下のとおりです。
1.参加方法
オンライン会議システム「Zoom」を使用します。
PC、タブレットまたはスマートフォンをご用意ください。
あらかじめ「Zoom」のアプリケーションをインストールしておいていただくと、ご参加がスムーズです。
2.申込方法
各回の定員は、鑑賞者(おしゃべりする人)8名見学者(おしゃべりのようすを見学する人)15名いずれも先着順です。
以下のリンクから、申込フォーム(Googleフォームを使用)にご入力いただき、送信してください
※ 定員に達した日時と参加形態(鑑賞者・見学者)は、お申込フォームから入力できなくなります。

参加のお申込みは→こちらのリンク←または以下のQRコードからどうぞ!

 参加者のみなさまには、zoomリンクなどのご案内を、ご登録のメールアドレスに、開催日前日までにお送りさせていただきます。
 ※ フォームへのご入力・送信後、フォームからの自動メールが送信されます。迷惑メールフォルダに入ってしまうことがあるので、ご確認ください!
 ※ イベント開始前30分を過ぎてもメールが届かない場合は、ご遠慮なくお問い合わせください。

◎このイベントに関するお問い合わせは、event●fukuzmuseum.com (●をアットマークに替えてください)までどうぞ。

【展覧会】「PROJECT dnF」第9回 川端薫「その日を摘む」

福沢一郎記念美術財団では、1996年から毎年、福沢一郎とゆかりの深い多摩美術大学油画専攻卒業生と女子美術大学大学院洋画・版画専攻修了生の成績優秀者に、「福沢一郎賞」をお贈りしています。
この賞が20回めを迎えた2015年、当館では新たな試みとして、「PROJECT dnF ー「福沢一郎賞」受賞作家展ー」をはじめました。
これは、「福沢一郎賞」の歴代受賞者の方々に、記念館のギャラリーを個展会場としてご提供し、情報発信拠点のひとつとして当館を活用いただくことで、活動を応援するものです。

福沢一郎は昭和初期から前衛絵画の旗手として活躍し、さまざまな表現や手法に挑戦して、新たな絵画の可能性を追求してきました。またつねに諧謔の精神をもって時代、社会、そして人間をみつめ、その鋭い視線は初期から晩年にいたるまで一貫して作品のなかにあらわれています。
こうした「新たな絵画表現の追究」「時代・社会・人間への視線」は、現代の美術においても大きな課題といえます。こうした課題に真摯に取り組む作家たちに受け継がれてゆく福沢一郎の精神を、DNA(遺伝子)になぞらえて、当館の新たな試みを「PROJECT dnF」と名付けました。

今回は、川端薫(女子美術大学大学院洋画専攻修了、2016年受賞)が展覧会をおこないます。不思議な生命体を思わせる川端の作品は、福沢一郎のアトリエで、どのような世界をつくりあげるのでしょうか。


◎展覧会 会期:
2021年10月21日(木)-11月6日(土) の 木・金・土曜日開館
12:00 – 17:00  観覧無料


川端 薫(かわばた・かおる)

1990 福井県生まれ
2016 女子美術大学大学院修士課程洋画研究領域 修了 福沢一郎賞受賞

「生命体とは自己複製する術をもつものである」という定義をもとに、制作を自己複製、作品を生命体と捉えている。

最近の展示歴
〈個展〉
2021 「或る惑星の細胞」(JINEN GALLERY・東京、小伝馬町)
2020 「透明な温室」(JINEN GALLERY)
〈グループ展〉
2021 「The PLANTS」(アートコンプレックスセンター・東京、四谷)
   「5つのいきものがたり」(Gallery FACE TO FACE・東京、西荻窪)


《blooming》 2017年 樟、油絵具 W600×D600×H730mm
《hands》2016年 樟、油絵具 W500×D500×H650mm
《Platycerium teneros ‘Living Trophy’》 2021年 針金、塗料、ベニヤ、スタイロフォーム 等  W750×D550×H750mm

《Osmantus gigas》 2019年 糸、粘土、水彩絵具 他 縦590×横500mm

所蔵作品選 絵からうまれることばたち 作品その9

※ふせんに書いてくださったことばをそのまま掲載しています。
※文字の色は、ことばが書かれたふせんの色です。

・デッサンうまいね
・ストレッチ中? メロスの休憩
・スケッチってスゴイ
・はじめての先生のタッチ!
・ストレッチ中 今日もケガをしないで走りきれますように・ねてるひと
・よこたわるせいねん
・しばし止まって自分の体をいたわる 何を考えているのだろう
・見ていてやすらぎを感じます 体の線がなめらかで美しいです
・うたたねしている男 気持ちよく寝ている 休日
・道ばたでたおれている人 でも、辛そうではなくて幸せそうにねている
足がつった!
・スケッチが素晴らしい 右手が大きいね
・画家のスケッチの美しさ 鉛筆の使い方にいたく感動! 顔は苦悩 戦後の生きてきた時代を感じます
・疲れている 足をマッサージしている? 寝ている
・彼女にフラレた?? ねんざした? 影を見習いたい
・おつかれさま!
・イテテー
・ジショウ 自バク コツコ
・若い人だから出来るポーズです。年寄でもシナモンを摂取すると体が若返り、このポースが可能です。
・苦しんでいる人
・ストレッチ
・足と手が大きい とてもがんじょうそう
・ダンスの途中のポーズ 舞台で踊っているみたい


【ちょっとたねあかし】

《横たわる青年》
1951年 鉛筆、水彩・紙 24.2✕35.8cm

 この絵は《ノー・モア・ウォー》と同じ年にえがかれていて、画材も同じものを使っているようです。でも、絵の印象はずいぶん違うような気がします。
 《ノー・モア・ウォー》は、人物がデフォルメされていて、ちょっとマンガっぽいですよね。でもこの絵は、人の体がかなりリアルにえがかれています。横になって目をつむって、休んでいるのかな…と思いきや、けっこう不思議なポーズをとっています。右足を折りたたんで持ち上げ、そのひざの下から右腕を通して右足の甲を押さえる…。こんなポーズをして休むひとは、ちょっとめずらしいように思うのですが…みなさんはいかがでしょう。どんなようすを想像しましたか?
 もしかすると、絵画教室などでおこなわれていた、人体デッサンの授業に混じってえがいたのかもしれません。人体デッサンのモデルさんは、ふつうじゃないポーズをとらされることがあるので…。福沢はこの頃いくつかの絵画教室に呼ばれて絵の指導をしていたらしいことが、人々のお話や写真などからわかっています。若い男の人の不思議なポーズ…みなさんならどんなふうにえがくでしょう?


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所蔵作品選 絵からうまれることばたち 作品その8

※ふせんに書いてくださったことばをそのまま掲載しています。
※文字の色は、ことばが書かれたふせんの色です。

・広島の青い空をあおぎ、平和を祈念する
・飛行機? 鳥?
・背を向けた大人、髪が抜けてしまっている.原爆の怖さをソフトに画いているのか. 遠いドームxx 距離感?!
・東京は焼けちゃった。
・のーもあうーぉ・可愛いい 昔空をみたナ…
・まん中の建物、原爆ドームにみえた。
・貧しかった時代の素朴な人間の姿が描かれた作品.近い時代に育った私は共感さえ覚える.
・あの鳥どこに行くの?
・空爆後、生き残った人たちと青空を見上げてる
・おじいちゃんと孫 ひろがる空 自由な未来!
・日本じゃないみたい
・戦時に初めて見た米軍の爆撃機 あるいは空に憧れる祖父と孫
・飛行機 空爆?を見つめている 少し悲しいイメージ
・戦時前? 広島? 建物が立派でも人の服が大昔感.
・今迄見たことのない福沢さんの絵発見 すごくいいー!
・老人と孫かな? ほのぼのするわ
・郊外にて憩い
・原爆の様子を思いうかんだ
・各ドローイングの数々、毎回刺激を受けます
・ヒロシマにて.爆撃機じゃなくて鳥でよかった。
・全てを失った後の それでも生きている乾いた現実 万感の福沢の思いに涙が出ました
・いつか乗りたいなあ 飛行機
・「あっ ひこうきだ!!」
・広島に飛ぶ飛行機を見上げている
・広島?


【ちょっとたねあかし】

《ノー・モア・ウォー》
1951年 鉛筆、水彩・紙 30.6✕23.0cm

 この絵も緑色の絵具と鉛筆の線だけでえがかれています。空に雲が浮かび、鳥が飛んでいます。それを見上げる少女と、年配の男性らしき人物。遠くにはいくつか建物もみえますね。ドーム型の屋根をもつ真ん中の建物が目を引きます。
 タイトルは「ノー・モア・ウォー(NO MORE WAR)」つまり「戦争はもういらない」という意味ですね。この絵がえがかれたのは1951(昭和26)年。大きな戦争が終わってから6年後のことです。このころ日本はだんだん立ち直りはじめていましたが、おとなりの朝鮮半島ではとてもはげしい戦争があって、そのほかの国々のあいだにも争いの火種がくすぶっていました。
 福沢一郎は、自分の絵に直接社会的なメッセージをえがくことをあまり良いことと思っていませんでした。絵はいろいろな読みかたを受け入れるものでなければいけないので、強いメッセージをこめると、絵のみかたが限定されてしまうからです。そんな画家が、なかなかに直接的なメッセージをこめたと思われるこの絵を、みなさんはどう読んだでしょうか。もちろん、いろいろな読みかたがあっていいんです!


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所蔵作品選 絵からうまれることばたち 作品その7

※ふせんに書いてくださったことばをそのまま掲載しています。
※文字の色は、ことばが書かれたふせんの色です。

・山火事!
・このグリーンの色が良いですね。
・牛といのしし(?)の目が色っぽい♡
・今、やたら熊鹿猿達が人間社会に出てくる.この子達も逃亡して来たかな?
・干支レース やっぱりネコは出遅れて姿も見えない・動物の姿が良いね.命を感じる
・動物たちはそれぞれ見たことを報告したくてしょうがないが にげなくてはいけないし、
・犬? うさぎ
・ジブン 山の生命
・うさぎ、きつね、イノシシ、シカ なぜ緑なのか、自然のイメージ
・干支の競争 事前の動物が人から逃げてる?
・らくえんからとうぼうするどうぶつたち
・ジブリ感漂う山の生物と生命力の表現
・日本昔話シ
・いのしし しか おおかみ うさぎ いのししが怒って追いかけていて、逃げている。
・人間からにげる動物たち(食べ物をぬすんで)
・うさぎ「へへ〜ん みんな僕には追いつけないもんね」
・動物たちが弱っている こちらを見つめている
・追われて逃げて… 狩られるの?
・動物たちの動きがいいですね シンプルでいい
・緑色が絵をさらに美しくやさしいイメージへと高めているように感じます
・動物たちの競争 ウサギが1位かな?
・昔にかかれたような絵のかんじがした 鹿とうさぎはイノシシときつねにおいかけられていて弱肉強食みたい


【ちょっとたねあかし】

《楽園から逃亡する動物達》
1980年 鉛筆、水彩・紙 36.9✕52.8cm

 うすく溶いた緑色の絵具と鉛筆の線だけで、動物のすがたがえがかれています。さらさらっと手早く引かれた線のせいか、かたちは少しやわらかめです。ウサギ、キツネ(オオカミ?それともイヌ?)、イノシシ、そしてシカでしょうか。体の向きから考えて、どうやらみんな、画面左側から右側へ向かって駆け出しているような動きです。みなさんは、この絵のなかでどんなことが起こっていると思いましたか? 動物たちはいったい何をしているのでしょう?
 この絵は、山梨県立美術館のロビーに飾られている《失楽園》という作品の構想を練るために描かれたスケッチだといわれています。福沢は、旧約聖書の「創世記」をもとに書かれたジョン・ミルトン作『失楽園』という本を題材にして、この絵をえがきました。この絵の中では、4匹の動物は楽園から去るアダムとイブのうしろにえがかれていて、ふたりといっしょに楽園から急いで逃げ出しているようにみえます。
 大作《失楽園》とこのスケッチでは、動物たちの印象はずいぶんちがいます。ですから、みなさんの思いえがく物語も、ずいぶん違ったものになるかもしれませんね。


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所蔵作品選 絵からうまれることばたち 作品その6

※ふせんに書いてくださったことばをそのまま掲載しています。
※文字の色は、ことばが書かれたふせんの色です。

・月にいる神様「人間もここまで来るようになるとはね。」
・奥の所がブラックホールみたい 宇宙人が何かをみつけた?
・何が落ちてるのだろう.ちょっと不気味だけど服の色がすき。
・おぼれている人に対してただ見つめているように見える 風景は月の上のように見える
・迫力があって絵に引き込まれそうです.
・月面を歩く 人ではない生物のようにみえる 目線の先は顔があって 人間を見下ろす、あわれな視線?
・緑の服の人はなぜにやけているのか
・天の川逆バージョン
・2人は何を見つめている? 人の首? 暗いイメージ
・野生の目玉焼きみっけ!
・見守っている男性の衣の色が好きです。私も子供達の様に見守って欲しい
・氷の湖 氷を溶かせるか そのことで罪人たちを救えないか思案中…?!・波をかき分けて来る子羊に救ひを与えるメシアのやう‥ F
・キリスト? 水の中に人
・おぼれる人々を助けずにただ見つめるおじさん2人 かおが笑っててちょっと怖い
・宇宙の卵 割れてしょんぼり
・月世界のつどい
・New イザナギとイザナミ 新しい日本創造
・助けを求める人と見ている人。女神様みたい。
・何かみつけた
・さるのおんせんをながめている人々
・表面のざらざらが印象的です さわってみたくなります
・水泳大会 海水浴 子どもたちを見守る大人たち
・首切り役人? 白っぽいのは骨に見える 教祖感
・人生を終えあの世へたどり着こう! 向こうからは、来たければ来れば アマクないよ!
・こおりのみずうみをわたるだんて
・美しき色彩の対比.一郎先生の理想が現れた作品 ずっと見ていると私の心も澄んでくるようです


【ちょっとたねあかし】

《氷の湖を渡るダンテ》
1989年 アクリリック・キャンバス 24.5✕33.5cm

 ごてごて、ぼこぼこした画面に、人のかたちがいくつかえがかれています。画面右側には立っている人がふたり。画面真ん中から左にかけて、人の頭のようなかたちも3つあります。えっ、人の頭だと思わなかった!という方もいらっしゃるかもしれませんね。
 この3つのかたちが人の頭らしいと思われる理由は、作品のタイトルにあります。「ダンテ」とは、今から700年ほど前に活躍したイタリアの詩人の名前で、この人が書いた『神曲』は、世界中で読まれるとても有名な物語です。この中の「地獄篇」には、ダンテが地獄の世界を旅する途中「氷の湖」を渡る場面が出てくるのです。そこはとても重い罪を背負った人たちが氷づけになって苦しんでいるところなのですが…。さて、みなさんは最初にこの絵を見たとき、どんな物語を想像したでしょう? ダンテの物語と似ていますか? それともぜんぜん違いますか?


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所蔵作品選 絵からうまれることばたち 作品その5

※ふせんに書いてくださったことばをそのまま掲載しています。
※文字の色は、ことばが書かれたふせんの色です。

・花びんと花の色がいい 好きな絵です
・テント虫がかわいい テント虫がいることで花の大きさが分かる
・花にも見えるし、虫にも見える。いかにも一郎先生らしい豊かな色彩ですね!!
・庭で摘みたてのような花 パンジー
・ものすごい鮮やかさに圧倒されちゃう 僕はテントウムシ
・福沢一郎の花の絵が好きです てんとう虫が何とも愛らしい
・てんとう虫がいとおしいです
・穏やかな日常に天とう虫ががえられた 明るいところ
・平和な世の中に大らかに、美しく生きる。
・てんとう虫は肉食の昆虫です。きれいな花にたかる「あぶら虫」に吸い寄せされているのかな?
・こんな風に絵を描きたい!対象に向ける目はどんななのでしょう!
何の花?
・大好きです このバラの絵
・ナイフを使ってバラのマーブルな所や花びらの重なり ス.テ.キ.
・あ!! 落ちちゃった
・てんとう虫 ブーケ
・良い香り
・君はどこから来たのかね
・無題 花瓶が軽々と浮かんでいるな
・右下にいるてんとう虫がかわいい 花を目指している?
・いいね!
・てんとう虫にとっておいしそうな花
・バラがつぼとマッチしていてバランスがよく美しい
・花束全開
・いも
・この花の絵 部屋に飾ってみたいです。いやな事も忘れ明るい気持ちになれます。
・圧倒的な花の大きさ 極小のテント虫 いのちの重さは変わりません.
・てんとう虫がかわいい!!
・バラはやっぱりきれい いつみてもいい
・絵の具を直ぬり 他のとはちがう雰囲気?
・てんとう虫み〜つけた.
・むだい
・てんとう虫さん お花Love♡


【ちょっとたねあかし】

《無題》
制作年不明 アクリリック・キャンバス 32.0✕41.1cm

 なんの変哲もない花瓶と、そこに生けられた大ぶりの花がえがかれた絵…と思っていたら、画面の右下、ちいさなてんとう虫がえがかれている! みなさんは気づきましたか? このてんとう虫はどこから来たんだろう? ここで何をしているんだろう? そして、これからどうするつもりなんだろう…? たった一匹のてんとう虫が、いろいろな想像をふくらませてくれる気がします。みなさんはどんな物語を思い浮かべるでしょう?
 福沢は、花瓶に生けた花の絵をたくさんえがいていて、ごってりと絵具を分厚く重ねたもの、花瓶に人のすがたが描いてあるものなど、さまざまなバリエーションがありますが、こんなふうにてんとう虫をえがき入れたものは、とてもめずらしいのです。画家はどんな気持ちで、この絵にてんとう虫を登場させたのでしょう? 画家の気分になって想像をふくらませるのも、ちょっと楽しいものです。


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所蔵作品選 絵からうまれることばたち 作品その4

※ふせんに書いてくださったことばをそのまま掲載しています。
※文字の色は、ことばが書かれたふせんの色です。

・すこしだけ休ませて!
・大きな現物の絵を見てみたい 一郎先生の裸体の肉づきはとてもたくましくて頼りがいがありそう。
・たくましいー
・奥の重なるような人たちは争っている 手前の女性は争いにも疲れた?むずかしい時代でした。
・巨人の戦い 苦しい・辛そう ローマ? ラスタカラー
・じょせいぐんぞう
・一番下の人が苦しそうだ
・しばらくやすんで70年後 戦後の復興です
・歴史・世の中はいやという程の(アラソイ)のなかで進んで行くのか
・争いにそれを避ける人,成り立ちのような.
・第2次世界大戦!! この悲劇の教訓はバク大な量です。地球温暖化も大悲劇を産み出しつつあります。グレた・ツインベリさんに続こう!!
・つかれたあ〜
・私がモデル?
・とらわれし シユウネン コツコ
・疲れた母と けんかする子供 夕暮れ
・人?

・ああつかれた
・だるい(手前)はげしい(後方)感じ〜〜!!
・ひるね
・原始人 夕焼け
・大衆浴場 後ろで子どもたちがはしゃいでいる。
・遊ぶ子供たちと休む母 平穏な日々
・難民たち
・けんかしているように見える
・ケンカorあそんで疲れたのかな
・すもうの練習 疲れました でもすもうは楽しい
・不毛な争い
・疲労
・孫悟空昇天
・知的肉弾戦
・うばすて山かな?


【ちょっとたねあかし】

《女性群像》
1949年 油彩・キャンバス 65.2✕91.0cm

 はだかの人たちが、ごろごろと石が転がる風景のなかにえがかれています。空は赤と緑と黄色と…いろんな色でぬられていますね。朝なのか昼なのか夕方なのか…ちょっとはっきりしない不思議な空です。
 画面の右奥では、はだかの人たちが組み合わされ、重なるようにえがかれています。いったい何をしているのでしょう。画面左手前の女の人…乳房がはっきりえがかれているので、たぶんそうだと思います…は、たくましい体つきですが、顔を下に向けて、少しつかれた様子です。休んでいるだけなのか、それとも落ち込んでいるのか。いろいろな読み方ができそうですね。
 この絵が描かれたのは1949年、大きな戦争が終わってから4年後のことです。戦争が終わってから5年ほどのあいだ、福沢は、はだかの人間たちが荒れ果てた大地にうごめくようすをえがいた作品をたくさん発表していて、どうやらこの世を「地獄」に見立ててえがかれたものが多いようです。この作品もそんなシリーズの中のひとつだと考えられています。


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所蔵作品選 絵からうまれることばたち 作品その3

※ふせんに書いてくださったことばをそのまま掲載しています。
※文字の色は、ことばが書かれたふせんの色です。

・金の卵?
・鏡にうつる自分を見ている人
・ぐぬぐぬと た丶かふ天使 ガンバレよ コツコ
・ぺるせうすめどうせ
・輝く翼に刃 鏡?
・ろボロン? いや、モスラかな?
・コロナウイルス封じ込め完了 明るい未来へ!
・動きがあってカッコイイ.エスキースの線を残すのも一つなんだな。
・切りとられた髪のへびはまだ動いています

・人体化した蚊? 何かの戦い 古代ローマ 暑い
・これは良いですネ〜! 色の使い方が好きです
・ギリシャ神話? たねあかし本読んで納得した次第です。うーんなる程!
メドウサの髪 ヘビを退治することでメドウサ本人の生命を救う まっとうな姿にもどして
・ビックリ! 中にヘビが
・福沢先生の絵は、人物像が丸く、太く、力強いので生命がはじけるようです。花鳥風月、月はあまりないかもしれませんが、原色を多く使うことで同じモチーフのものがないのが理知的です。

・立派な顔をしたお父さんが子供を見守っているみたいです 蛇もゆったりと太目ですね。全体の色の感じが好きです。
・円盤投げ?
・女神と鳥人間。ギリシャ神話が混ざっているのかな?
・メデューサの顔が見たかった 盾に映しながら とはどうやって近づくのかと思っていたが、そうか
・守護者みたいに何かから守っているよう
・人間の前面には常に猿顔(ずるさ)があり、笑いながらも検をしたため、相手(ヘビ)に対してそなえている。
・神話の世界?

・中年女性
・天使が卵を運んできた。
・鳥なのか人間なのか 色彩が好き
・この人物からパワーがっ!!
・火打ち石を初めて見つけた原始人
・動物→トラ?サル?人間のようにもみえる ヘビをつかまえる仕掛けをつくって見事ゲットしたみたいなかんじ
・シックな色合も素敵です。
・パンをたべようとしているかい物。パンのにおいをかいでいるかい物
・猿とへびだと思われる→ナイフをもっているように見える
・メデューサと戦う 迫力
・ラグビー部
・闘う剣士 みなぎるとうし
・地上に降り立ち生き物観察する天使?
・ペルセウスが退治したメドゥーサは彼の盾の中でその実の姿ヘビを表した
・不死鳥が卵を孵化するのを見守っているが、どんな子が産まれてくるのかはまだ解っていない。
・自由でいいなあ
・奥深い色使いで表現力がすごいです。
・たまご?顔の表現がめちゃくちゃよい!


【ちょっとたねあかし】

《ペルセウス、メドゥサを退治する》
1985年 アクリリック・キャンバス 72.7✕60.6cm

 このタイトルをみて、「えっ、これが?」と思ったかたはけっこう多いのではないかと思います。画面の中に、人物らしきかたちが大きくえがかれているのはなんとなくわかりますが、それがいったいどんなことをしているのか? いったいどんな場面なのか? 細かく説明するようなえがきかたではないので、ぱっとイメージするのはむずかしいですね。
 では、タイトルにそって絵を読んでみましょう。ペルセウスは、ギリシャ神話に出てくるヒーローで、あるときメドゥーサ(メドゥサ)を退治するように命じられます。メドゥーサは髪の毛のかわりに生きている蛇がはえている怪物で、それににらまれると石になってしまう怖ろしい能力を持っていました。ペルセウスは青銅の盾にメドゥーサのすがたを映しながら近づいて、みごとその首を切り取ることに成功します。この絵はきっと、その退治の場面をえがいたものと考えられます。
 とすると、この大きくえがかれた人物はペルセウスで、右手ににぎられているのは剣でしょうか。そして、ちょっとつぶれた円いかたちは、メドゥーサのすがたを映す青銅の盾、画面右下のもじゃもじゃしたかたちが、もしかしてメドゥーサの頭かも?と想像することができそうです。
 面白いのは、ほんとうならメドゥーサの顔が盾に映っているはずなのですが、映っているのは、いきおいよくえがかれた、茶色のくねくねとした線。これはいったい何なのでしょう? みなさんはどう思いますか?


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