福沢一郎(1898~1992)は、一貫して主題(画題)を如何に表現するかということを追究し続けた、日本の絵画史に異彩を放つ作家です。また、昭和初期における所謂「シュルレアリスム絵画」の紹介者としても広く知られています。
大正末期から平成へと至る画業において、彼はさまざまに主題と作風を変えながら制作に取り組みました。彼の作品には、同時代の美術、社会、そして人間のすがたが見え隠れします。それは、彼が生涯抱き続けたドライな批判精神により生み出されたものです。また、彼の量感あふれる人体表現や独特な色彩感覚は、日本の洋画史において他に類を見ない特長といえます。
彼の画業の概略については、以下の略年譜をご参照ください。
1898(明治31) | 0歳 | 1月18日 群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)に生まれる。父仁太郎、母ハツ。 |
1918(大正7) | 20歳 | 9月 東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に入学。しかし大学にはほとんど行かず、朝倉文夫の彫塑塾に通う。 |
1924(大正13) | 26歳 | 4月 彫刻の勉強のため渡仏。 |
1927(昭和2) | 29歳 | この頃、彫刻をやめて絵画制作に本格的に取り組むようになる。 |
1931(昭和6) | 33歳 | 1月 第一回独立美術協会展(10~31日 東京府美術館)に滞欧作が特別陳列され、当時の美術界に衝撃を与える。 6月5日 帰国。 この後、さかんな制作と執筆活動によって、次第に前衛絵画運動の主導者的立場をとるようになる。 |
1939(昭和14) | 41歳 | 4月5日 独立美術協会を脱会。 5月17日 美術文化協会を結成 |
1941(昭和16) | 43歳 | 4月 治安維持法違反の嫌疑により逮捕され、世田谷署に拘置される。11月放免される。以後終戦まで、前衛的な絵画活動をきびしく制限され、戦争協力画制作などに従事する。 |
1945(昭和20) | 47歳 | 3月 東京大空襲の後軽井沢に家族と共に疎開。 |
1949(昭和24) | 51歳 | この年、美術文化協会を脱退。 |
1952(昭和27) | 54歳 | 5月 文化自由委員会の日本代表として同会主催の国際フェスティバルに参加するため渡仏。 |
1953(昭和28) | 55歳 | 1月 フランスからブラジルへ渡り、サンパウロ、ベレンなどの街に滞在。1954年6月頃までブラジル、メキシコなどを旅行する。 |
1954(昭和29) | 56歳 | 6月 帰国。 この年美術文化協会に再入会。 |
1957(昭和32) | 59歳 | 5月 第4回日本国際美術展に《埋葬》を出品、日本部の最高賞を受ける。 11月 美術文化協会を再脱退。 |
1965(昭和40) | 67歳 | 4月15日 渡米。アメリカ留学中の長男夫妻を訪ねる。 6月ニューヨークに移り制作に励む。 9月スペインに向かって10月、パリより帰国。 |
1976(昭和51) | 76歳 | 4月17日 「福沢一郎展」が群馬県立近代美術館で開催される(~5月23日)。 |
1978(昭和53) | 80歳 | 10月 文化功労者に選ばれる。 |
1988(昭和63) | 90歳 | 4月から「福沢一郎展」が、群馬県立近代美術館と世田谷美術館で開催される。 |
1991(平成3) | 93歳 | 11月 文化勲章受章。 |
1992(平成4) | 94歳 | 6月14日 「文化勲章受章記念 福沢一郎展」が群馬県立近代美術館で開催される(~7月19日)。 10月16日 聖路加病院にて死去。20日に砧の聖愛教会で葬儀が行われる。 |